マサチューセッツ湾直轄植民地とニューハンプシャー植民地の総督職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:49 UTC 版)
「ウィリアム・バーネット (政治家)」の記事における「マサチューセッツ湾直轄植民地とニューハンプシャー植民地の総督職」の解説
バーネットはその短く終わった任期で、ニューハンプシャーにほんの短期間だけ滞在し、マサチューセッツとは異なり、3年間あるいは勤務した期間だけの給与を簡単に認められた。マサチューセッツ湾直轄植民地総督に指名されたときは、サミュエル・シュート総督の代行としてウィリアム・ダマー副総督が長年統治を続けていた(シュートは1723年からイングランドに戻っていた)。バーネットはマサチューセッツ植民地議会に自分の恒久的給与を認めさせるという押しの強さを要する試みを行った。1692年にマサチューセッツに王室勅許が与えられて以来、議会は一貫してこれに抵抗し、総督に対して断続的に認定を与えるような選択を行っていた。地元政治家は総督が彼らの政策を承認するように仕向ける効果的な仕組みだとみなした。総督は次の認定がいつ出されるかを知ることがなく、その程度も知らなかったからだった。この給与問題は、前任のシュート総督が植民地にいる間に悩ませられた多くの問題の1つだった。副総督のダマーは裕福なマサチューセッツ生まれの者であり、植民地の民兵隊の指揮を続けることができさえすれば、より妥協的だった。 バーネットは給与問題については極端な強硬路線を採ることにした。給与問題が決着するまで、他の案件を取り上げず、議会を解散もしないと主張した。議会は対抗して給与法案を法制化することを拒否したが、寛大な1回のみの認定を提案し、バーネットが原則を主張して拒否した。議会が給与問題で行動しなければ、植民地認証にも危険を及ぼすと暗に示唆することで、緊張感を増した。議員たちの生活をできる限り難しくするために、議会をボストンから先ずセイラムに、続いてケンブリッジに移して、議員の経費を増加させ、その多くにボストン地域にある自宅の快適さを味わえないようした。1728年11月、議会はロンドンに代理人を派遣して、貿易省でこの問題に関する持論を展開することを票決した。代理人に資金を割り当てる試みは総督評議会によって否決され、代理人は献金で集めた資金で手当てされることで諦めるしかなかった。 1729年5月、貿易委員会がバーネット総督の言い分を支持する裁定を出したが、それでも議会はそれを飲むことを拒否した。他の懸案事項を解決しようという試みは常に給与問題とぶつかるようになり、立ち往生することになった。この論争は1729年8月31日にバーネットがケンブリッジからボストンに向かっていたときも続いていた。このときバーネットは馬車が事故で転覆し、水中に投げ出された。バーネットがこれが原因で病気となり、1729年9月7日に死んだ。ボストンの国王の礼拝堂埋葬墓地に埋葬された。 ロンドンに派遣されていた代理人の1人だったジョナサン・ベルチャーが、バーネットの後任として選任され、マサチューセッツに戻って着任するまで、副総督のウィリアム・ダマーが総督代行を再度務めた。ダマーはバーネットと同じ姿勢を選び、毎年認定されることを拒んだ。ダマーは副総督のウィリアム・テイラーと代行として交代させられ、テイラーは毎年の認定を黙諾した。後の1730年に総督になったジョナサン・ベルチャーは、先ずバーネットが給与問題に関わっていたことを指示されたが、その任期の間に貿易委員会は最終的にその指示を放棄し、毎年の認定を得られることを認めた。
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