マサチューセッツ総督代行
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「ウィリアム・テイラー」の記事における「マサチューセッツ総督代行」の解説
テイラーは1712年から1729年まで総督評議会委員に選ばれていた。この間に3度、マサチューセッツ副総督に任官されたことがあった。ダドリーとは姻戚によって関連があったにも拘わらず、副総督を務めた最初の2度は総督との政治的関係がギスギスしていた。テイラーは植民地に多くいたイングランド国教会員の1人であり、ダドリーの信仰については懐疑的だった。ダドリーはピューリタンの中で育っており、1690年代にイングランドに居た間にイングランド国教会の慣習を正式に採用していた。テイラーとダドリーは、植民地の貨幣問題でも反対の立場に立った。ダドリーはアン女王戦争の終わる1713年までに重大な問題になっていた、増え続ける紙幣発行を避ける手段として、公的信用証券の発行に賛成していた。一方テイラーは、義父のナサニエル・バイフィールド達と共に、民間の土地銀行を設立し、その投資家の土地によって保証された紙幣の発行に賛成していた。 1714年、バイフィールドがロンドンに行って、土地銀行支持側に立ってロビー活動を行い、自分のためには総督任命を求めた。それは国王ジョージ1世の就位後に検討課題になっていた。総督の地位は得られなかったが、ダドリーの後任に選ばれていたエリゼウス・バージェス大佐を説得して、テイラーを副総督に留めさせることには成功した。しかし、バージェスは土地銀行の反対者から賄賂を受け取り、イングランドを離れる前にその職を辞してしまった。その時点までにバージェスとテイラーへの任命書がマサチューセッツに送られており、二人の任官が公表された後の1715年11月、テイラーが総督代行に就任した。 テイラーは総督代行に着任して直ぐに政治的な浄化に取り組み、土地銀行反対者とダドリーの支持者を多くの植民地の役職から排除した。しかし、その努力は裏目に出た。植民地議会がダドリーの息子ポールを検事総長に選任し、ロンドンの反土地銀行派のエージェントがテイラーの更迭のために動いた。ただし、そうしたエージェントの1人だったジョナサン・ベルチャーが後年、皮肉にもテイラーンの同盟者となり、テイラーを3度目の副総督に据えることになった。反土地銀行派の活動によって国王は反対派のサミュエル・シュート大佐をバージェスの後任に、ウィリアム・ダマーをその副総督に選任した。1716年10月、シュートが着任した時にテイラーはその職を離れた。シュートはその到着時にテイラーを冷遇し、ダドリーを先ず会見する相手に選んだ。 テイラーが総督代行であった間に、その後も長く続くことになった唯一の成果は、現在のアメリカ合衆国では最初期の灯台であるボストン灯台の建設を承認したことだった。テイラーは議会議員であった間に立法委員会の委員となり、その建設と資金手当ての法案を起草し、総督代行になったあとで法案に署名した。
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