政治的関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 12:35 UTC 版)
百済にとって、北方で強勢を誇る高句麗は建国以来軍事上の脅威であり、その存在は百済の外交政策を強く規定した。高句麗の南下による馬韓への圧力は、それに対抗する形での「伯済国」による統合を促し、百済の飛躍的な発展をもたらした要素の一つであると考えられる。更に369年の対高句麗戦の勝利と、371年に故国原王を討ち取った時期と、百済が直接国際舞台に登場する時期が同時期であることには留意されるべきである。 391年に広開土王が高句麗で即位すると、彼は周辺諸国へ積極的な拡張政策を取り、百済もその攻勢を受けることとなった。広開土王碑文の記述ではその展開は次のようなものであった。太古の昔より百済は高句麗に朝貢する「属民」であったが、391年に倭がこれを臣民としたため、高句麗は396年に百済を破り、これを「奴客」とした。そして高句麗は百済から58の城邑の700村を奪い、百済王に忠誠を誓わせ、王子らを人質としたが、百済は倭国と「和通」して高句麗に対抗しようとした。400年には高句麗が新羅へ進軍し、新羅王都を占領していた倭軍を撃破し、新羅が高句麗に服属した。この時、高句麗軍は朝鮮半島南部の任那加羅にまで進撃したという。高句麗は404年の帯方地方への倭軍の攻撃も退け、407年には再び50,000の大軍をもって百済を攻撃した。高句麗はこの時、百済はから7城を奪った。 この広開土王碑文の記述は、『三国史記』や『日本書紀』に対応する記述が見られ、信頼性が高いと見られる(倭国との関係節を参照)。ただし、『広開土王碑文』における「奴客」という表現や、古の昔から高句麗の「属民」であったという記録は、高句麗が認識していたあるべき過去に基づいて増幅された誇張であるという指摘がある。事実として、上記の碑文の記述を信ずるならば、「古より高句麗の属民であった百済」は391年に倭によって高句麗から離脱し、396年に再び高句麗の「奴客」となったものの、翌397年には再び高句麗から離れ、その後数度に渡り領土を削られつつも、広開土王の治世中、遂に高句麗の勢力圏に収まることはなかったことが読み取れるためである。 高句麗は同時期に中国方面で後燕・北燕とも衝突を繰り返していたが、北魏が華北で勢力を拡大すると、426年の初の朝貢以後、これと安定した関係を構築した。そして427年、高句麗の長寿王はそれ以前から南方における重要拠点であった平壌に遷都し、北魏との関係安定および北燕の滅亡に伴い盛んに南進の姿勢を示した。この時期、高句麗は新羅の王都に軍を駐留させ、その王の廃立にまで影響力を振るうほど勢力を拡張させていた。高句麗の圧力を受ける百済は支配からの離脱を目指す新羅と連携してこれに対抗した。しかし、長寿王は455年以後繰り返し百済に侵攻した。百済側も高句麗領の一部に侵入を行ったものの、475年には百済の王都漢城が占領され、百済は一時実質的に滅亡する事態に陥った。その後、百済は熊津で復興し、南方の伽耶へ活路を見出すとともに、新羅との連携によって高句麗に対抗した。 6世紀の武寧王代には高句麗との関係はやや小康状態にあったが、聖王代には538年に高句麗と大規模な軍事衝突が発生し敗れている。百済は550年頃に国境の城の奪い合いによって始まった紛争では、翌551年に新羅との連合軍によって旧都漢城の奪回に成功した。しかし、翌年には漢城からの退却に追い込まれ、この都市を新羅に掠め取られる形となった。勢力を拡張する新羅が脅威となる中でも、百済の高句麗との敵対関係は基本的に変わらず、589年に中国を隋が統一すると、これにいち早く遣使し、繰り返し高句麗征討を要請するとともに、それへの協力を申し出ている。隋が倒れ、唐が成立した後も、百済は対新羅戦においては高句麗と結託しつつ、唐に対しては高句麗が朝貢路を塞いでいることを訴えていた。 642年に至り、権力を掌握した義慈王は長年対立を続けてきた高句麗と和信し、対新羅戦に傾注した。655年には百済は高句麗と協同して新羅を攻撃し、多くの領土を奪取することに成功した。しかし、新羅から度重なる救援要請が唐へ出されると、陸上からの高句麗攻略が不首尾に終わっていた唐は海路百済を攻略し、高句麗を包囲する策に出た。結局これによって百済は高句麗に先立ち滅亡するに至った。 主上欲呑滅高麗,先誅百濟。留兵鎮守,制其心腹主上(高宗)は、高(句)麗を呑滅せんことを欲し、先ず百済を誅せり。兵を留めて鎮守し、その心腹を制す。-『旧唐書』卷八十四/列伝第三十四/劉仁軌伝
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