政治的論評
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「ルーマニア・モルドバ統一運動」の記事における「政治的論評」の解説
2004年とその後、ルーマニアの新聞紙ズィワ(英語版)紙上にてロシアの影響力のある政治評論家スタニスラフ・ベルコフスキー(英語版)はシリーズ記事を寄稿し、そのなかで彼は沿ドニエストルを除くルーマニアとモルドバの連合計画を提案した。彼の提案はクレムリンの上層部に支えられているのではないかと憶測が起こったが、確かめられることはなかった。しかし、一部のジャーナリストや学者らは、ドニエストル右岸でありながら沿ドニエストルの施政下にあるティギナの位置づけが不明瞭なこと、モルドバにはこの計画は受け入れがたいものであることなどを指摘し、この計画には根拠がないと言明した。 2006年1月、ルーマニア大統領トラヤン・バセスクはモルドバの欧州連合参加案を強く支持すると主張し、「ルーマニアの"最小限の政策"はEU内でのルーマニア人国家の統一である」とした。この"最小限の政策"は"最大の政策"があるのかという問題も引き起こした。 2006年1月のルーマニアの世論調査によると、44%の人々がモルドバとの統合に賛成しており、28%が反対している。また、統合に賛成するうち、28%が沿ドニエストルを含むモルドバとの統合を望み、16%は沿ドニエストルを除くモルドバとの統合を望んでいる。 2006年7月、ルーマニア大統領トラヤン・バセスクはモルドバ大統領ウラジーミル・ヴォローニンに2007年に「モルドバがルーマニアと共にEUに加わる」提案を行ったと主張しており、この提案は断られたとされている。バセスクはまた、ルーマニアはこの決定を尊重し、モルドバが自らEUに加わる際にはそれを助けるとした。 2006年10月、ルーマニア紙、コティディアヌル(英語版)はモルドバとの統一のコストを300-350億と見積もった。しかしズィワや、ティンプルから、コストを誇張して統合の可能性のその他の面を軽視していると批判された。 2008年11月にIRIがモルドバとルーマニアで行った世論調査では29%の人々がルーマニアとの統一に賛意を示しており、61%が反対していた。 モルドバの2009年4月5日に選挙が行われたが、選挙後に不正があるとしてモルドバ暴動が発生、その後に行われた選挙では自民党(英語版)、自由党(英語版)、民主党(英語版)、我がモルドバ同盟党(英語版)による欧州統合同盟(英語版)政権の樹立は、統合に関する対する新しい波の憶測を呼んだ。現在野党である共産党は「ユニオニストが力を握った」と主張した。2009年11月、政治解説者のスタニスラフ・ベルコフスキーはラジオ・フリー・ヨーロッパのインタビューで2009年4月の選挙はモルドバのルーマニアへの回帰の始まりとなったと主張した。 バセスク大統領はいくらかの閣僚と共にモルドバに訪れ、2国間の絆を強める幾つかの計画を発表し、1億ユーロをインフラ計画に付与することを提案した。バセスクはモルドバの計画を彼の「入魂の計画」とよんだ。モルドバ・ルーマニアの商業と投資機関の開放でルーマニア人の個人投資家は大幅に増加すると予想され、Sorin Ovidiu Vântuが保有するルーマニアRealitatea-CațavencuグループによるオンラインニュースポータルUnimediaが取得された。 2010年2月15日、国境であるリプカニ、ラダウツィ間の橋(英語版)が再度開かれることになり、ソビエトの遺構であるモルドバ・ルーマニア国境間の有刺鉄線壁が取り除かれた。 2010年1月、1990年から1991年にかけてモルドバの首相だったミルチャ・ドルク(英語版)がルーマニアとモルドバの統一は必然だと主張した。しかしながら、主張した当時大統領だったミハイ・ギンプはロシア語紙コムソモリスカヤ・プラウダ・モルドバとのインタビューでこのような動きを否定し、統一は連立政府の計画に含まれていないと言明した。別の機会に、国民が統一を望むのなら、自分を含め誰もとめることはないと述べている。彼は個人的にはユニオニストの見解を幾つかの場面で認めている。しかし、2010年8月、彼はルーマニアとモルドバの「国家間連合」の命題は「非常に愚かしい」考えであると述べた。
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