ルーマニアへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:57 UTC 版)
1870年にイヴァンは見習いとして商業を学ぶため、ルーマニア南部のオルテニツァの商人である叔父のところへ父が送った。けれども彼は商業に興味がなかった。彼はルーマニア語やルーマニア文学を学び、ミハイル・コガルニセアヌ、ヴァシレ・アレクサンドリ、ニコラエ・バレスク、その他多くの人物の革命思想を研究する。彼は書物により関心が高まったがためルーマニア東部のブライラに向かう、同年、中心的なブルガリア人亡命コミュニティに参加する。彼はストランジャにあるブルガリアの独立活動家の集会所のひとつだったニコラの宿屋でしばらくの間、住んでいた。そこでは決定的にヴァゾフに対して革命や自主独立の思想について影響を与えたフリスト・ボテフと出会った。ヴァゾフはルーマニア東部のブライラやガラツィで内部革命組織やブルガリア革命中央委員会(BRZK)の会合に参加する。苦しい生活の中、愛国組織の会議は青年詩人イヴァン・ヴァゾフにさし響き、彼の文学作に深い影響を残した。以後、『解放戦士』 (ブルガリア語 Хъшове; Haschowe)、『ネミリ-ネドラギ』 (ブルガリア語 Немили-недраги)といった小説等、複数の作品を発表する。最初に出版された詩集『闘争』 (ブルガリア語 Борба, ‚Kampf‘)は亡命雑誌『ブルガリア文学社会誌』 (ブルガリア語 Периодическо списание на Браилското книжовно дружество)で1870年に発表する。彼は愛国詩を新聞『祖国』 (ブルガリア語. Отечество)、新聞『独立』 (bulg. Свобода)、雑誌『集い』 (bulg. Читалище)にそれぞれ掲載する。 1873年から1872年にかけて、一旦、ブルガリアに戻ったイヴァン・ヴァゾフはオスマン帝国の支配下にあった町スビレングラートで教師として働いた。彼は翌年にソフィア-キュステンジル間の鉄道の線路建設で通訳者として働き、ブルガリア南東部にあるムスタファ・パシャ(現在の地名はスヴィレングラード)で貧しいブルガリア農民の生活を目のあたりにした。彼は1875年に故郷へ戻り、同年、内部革命組織の下部組織としてソポト革命委員会の結成に参加、オスマントルコ帝国と戦った。 ヴァゾフは1875年に勃発したスタラ・ザゴラ蜂起が武力鎮圧され失敗したことから追い詰められた。彼はルーマニアに不法に移住し、それからブカレストに定住する。そこで彼は中央ブルガリア慈善会(bulg. Българско централно благотворително общество)に入会し、秘書として働いた。彼はブカレストで、ルーマニア当局によって逮捕されトルコに引き渡される恐れがあるかもしれない困難な状況のもと、偽名Pejtschinを使い『プリャポレツ・イ・グスラ』 (bulg. Пряпорец и гусла)や『ブルガリアの悲嘆』(bulg. Тъгите на България; Tagite na Balgarija)といった詩集を書きあげて刊行した。 1877年から1878年にかけて勃発した露土戦争の中、ヴァゾフはスビシュトフやルセで元ロシア副領事ナイデン・ゲロフのもとで事務員として採用される。彼は当時まだ外国支配下で生活するブルガリア人にたいして呼び掛けた詩集『救世』 (ブルガリア語 Избавление)を書いた。1879年3月から1880年9月にかけて彼はベルコビツァ地域の訴訟機関で判事長を務め、その司法経験は長編詩『グラマダ』 (ブルガリア語. Грамада)を書く動機になっている。
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