政治的転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 07:31 UTC 版)
「ジョージ・スカイラー」の記事における「政治的転向」の解説
1937年から1944年にかけてスカイラーはNAACP(全米有色人種向上協会)のビジネス・マネージャーであった。ジョセフ・マッカーシーによるいわゆる赤狩りの時代に、スカイラーは急速に右傾していき、のちには極右政治団体であるジョン・バーチ協会の会報「アメリカン・オピニオン」誌に寄稿するに至った。 1947年に「黒人に対する共産主義者の陰謀」("The Communist Conspiracy against the Negroes")を発表する。スカイラーの保守主義は60年代・70年代の公民権運動時代に優勢だったリベラリズムとは好対照をなすものであり、「クーリエ」在職時の1964年には、キング牧師のノーベル平和賞受賞に抗議して、「キング博士の世界平和に対する主要な貢献は、暗鬱な腸チフスのメアリーのように全国をさまよい歩いては、頭のとっちらかった連中に捻じ曲がったキリスト教の教義を感染させ、うすらばかどもから高額の講演料をふんだくったことだ」と書いている。ただし「クーリエ」編集部はこの小文を掲載していない。同じ年、スカイラーは保守党(英語版)(62年に共和党から派生)の公認候補としてニューヨーク第18選挙区から下院選に出馬し、共和党の大統領候補バリー・ゴールドウォーターを推薦したため、「クーリエ」上層部はスカイラーの提携編集者(associate editor)の肩書を剥奪した。スカイラーを正式に批判し訣別することを伝える手紙が「クーリエ」から「ニューヨーク・タイムズ」の編集者宛で残っているが、この手紙の署名は「クーリエ」の共同発行者兼編集者であり、スカイラーの20年代からの古い友人であるパーシヴァル・L・プラッティス(Percival L. Prattis)となっている。 スカイラーはかつて南アフリカの黒人(英語版)を支持していたが、1960年代になると自身の反共思想からアパルトヘイト廃止へのいかなる行動にも反対するようになった。このことについてラジオで次のように述べている。「南アにはアパルトヘイトの制度が存在します。それはかれらの問題です。よその社会に変革を仕向けるべき筋合いはない。」 スカイラーの著述は掲載先をなくしていき、1977年の没時には忘れられた存在になっていた。作家イシュマエル・リードは『ノーモア黒人』99年版に寄せた解説で、黒人サークルでは晩年のスカイラーへはインタヴューすらタブーだったと記している。 晩年の仕事としては、北米新聞通信社(英語版)向けにコラムを書いていた(1965年 - 1977年)ほか、66年に自伝『黒人と保守』を出版している。
※この「政治的転向」の解説は、「ジョージ・スカイラー」の解説の一部です。
「政治的転向」を含む「ジョージ・スカイラー」の記事については、「ジョージ・スカイラー」の概要を参照ください。
- 政治的転向のページへのリンク