高句麗との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 02:40 UTC 版)
後漢末、遼東太守の公孫氏が独立すると、隣接する旧玄菟郡西端部から高句麗を駆逐した。その後、曹魏は侵犯を繰り返す高句麗に対して、毌丘倹を派遣して大いに打ち破り、丸都城を毀城した。これにより、旧玄菟郡西部は魏の領有となり、西晋、前燕、前秦、後燕へと継承された。東晋の時代になると、旧玄菟と玄菟遼東の二郡は後燕と高句麗との間での争奪が繰り返されたが、404年、最終的に遼東郡は高句麗の領有となった。これに前後して玄菟郡も高句麗の手に落ちたと推測される。 高句麗を構成する5部族の前身が玄菟郡の5県の県侯だったとすれば、32年(建武8年)に王に冊封された段階で5部族の連合体としての王国が成立したともみえる。高句麗の王都「丸都城」は玄菟城が訛ったものである。後世に編纂された『三国史記』に記載された伝承では、高句麗は前37年に建国されたことになっており、これは第二玄菟郡の期間内にあたるため、中国側から高句麗侯と呼ばれた勢力が大雑把にほぼその頃の建国であることは信憑性があると考えられている。なお、『三国史記』では高句麗は最初から王として出てくるが、中国が与える称号(冊封体制内での官職)としての「王」と、自国内の自称としての「王」は必ずしも一致しないのでこれは大きな矛盾とはいえない。 高句麗の国家発展は、玄菟郡への服属抵抗過程が大きな意義をもつという指摘があり、それらの漢人が高句麗王権に取り込まれ、高句麗の発展に寄与した。中華人民共和国国営出版社の人民出版社が発行している中国の大学歴史教材『世界通史』は、三国時代から高句麗を除外し、三国時代を「新羅、百済、伽耶」と規定、玄菟郡と高句麗の関係について、「漢の玄菟郡管轄下の中国少数民族であり、紀元前37年の政権樹立後、漢、魏晋南北朝、隋、唐にいたるまで全て中原王朝に隷属した中国少数民族の地方政権」と記述している。
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