第二玄菟郡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 02:40 UTC 版)
紀元前75年(元鳳6年)になると、未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治費用が嵩むとして直接支配を徐々に放棄して、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になり、玄菟郡は西へ縮小移転された。郡治の高句驪県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治県永陵鎮老城村(昔の興京)付近へ移され、元の場所には高句麗侯(後の高句麗王国の前身)が冊封された。 新の始建国4年(12年)、異民族蔑視政策を進めた王莽が高句麗を下句麗へ改名した為に、高句麗が玄菟郡を侵犯するようになる。後漢が成立すると光武帝建武6年(30年)に楽浪郡東部都尉は廃止となり、嶺東7県の直接統治は放棄され、それぞれ県侯として冊封して独立させた(その一例として夫租薉君・夫租長の銀印などが発見されている。3世紀の「沃沮族」の起源)。建武8年(32年)に高句麗侯は再び冊封体制下へ組み込まれ、候から王へ昇格された。
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