第二田沢幹線用水路
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上述のように昭和38年に「田沢疏水幹線用水路」が完成しているが、この年すぐに「第二田沢幹線用水路」の建設を着工している。起工式は、秋田県立大曲農業高等学校体育館において、昭和39年(1964年)6月におこなわれている。 この用水路は東北電力神代調整池の左岸から取水し、田沢疏水左岸用水路の東側に、神代から中仙町(旧豊岡村)栗沢を経て千畑村(旧千屋村)一丈木までの区間をトンネルを含んで山麓を縫うように建設し、田沢疏水受益地よりさらに一段高い地帯の未墾地約1,000haを開発するものであった。 昭和30年代以降は、開拓よりも経営規模拡大の動きが活発となり、農地造成により経営規模を拡大し、農業構造の改善と自立経営の育成を図るため、開拓と基幹から末端までの水利施設を一貫して施工するモデル事業として開拓パイロット事業制度が制定されたが、仙北平野においてはこの事業が全国第1号の地区としておこなわれた。そこでは、既存農家が自立農業を営むための基盤整備が目的とされたのである。重機の使用により工事期間は著しく短縮され、その完了は昭和44年(1969年)のことであった。受益者は既存農家1,102戸、受益面積は1,082haであった。 こうして「田沢疏水幹線用水路」「第二田沢幹線用水路」が完成し、流域のほとんどは広々とした水田となり、扇状地扇端部・扇央部の景観は大きく変わった。また、県内・国内の他地域にくらべ経営規模の広大な農家が増加して、米の産出量も増加した。 一方で、田沢疎水によって大きな調整池となった田沢湖の水質は昭和46年(1971年)ころにはph4.2まで下降し、すでにこの時点で酸性水の希釈能力は失われたと考えられる。昭和44年以降、秋田県では石灰による中和方法を採用し、昭和48年(1973年)以降は毎年3,000トンの石灰岩を隧道出口付近の台地に投入して中和処理をはかった。
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