昭和30年代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:54 UTC 版)
昭和30年代には、郊外の世田谷区、目黒区、横浜市などで路線の伸びが著しく、営業所の新設も相次いだ。この頃には東京駅を発着する都営共管の幹線が大田・品川・目黒・世田谷の各区から放射状に張り巡らされた他、新宿駅を発着する都営共管路線も存在した。 「東急バス下馬営業所#野沢線」も参照 一方、民営バス同士の共同運行も積極的に行い、国際興業から小田急グループ入りし事業の拡大を進めていた小田急バスとの共同運行を開始する。 詳細は「東急バス弦巻営業所#調布線」および「小田急シティバス#梅ヶ丘線」を参照 京王や京急に対しても影響力を持ち続け、渋谷区北部の路線の多くが京王に譲渡された後も、旧代々木乗合由来の初台線を東急単独で長く維持した他、東急と京王の共管で新宿駅へ乗り入れる系統も運行した。京急とは大井競馬場線の共管で信頼関係を保ち、1958年(昭和33年)、羽田空港 - 田園調布線開通で大田区東部の京急バスエリアへ再進出した。 詳細は「東急バス淡島営業所#初台線」および「東急バス池上営業所#空港線」を参照 1966年(昭和41年)、東急田園都市線の溝の口 - 長津田間が開業する。東急電鉄バスは横浜市営と神奈中が基盤を固めつつあった横浜市緑区(現・青葉区)の田園都市線沿線に本格進出し、鉄道駅と住宅地を結ぶ路線に経営資源を集中投入、多摩田園都市発展の基礎を作った。その皮切りとなった中山線は神奈中が単独運行していたところへ横浜市営共々参戦し、東急・市営・神奈中の3社共管路線が生まれた。その後横浜市営バスや小田急バスとの2社共管路線が増え、神奈中との2社共管も始まる。そして1983年(昭和58年)の十日市場線で横浜市旭区にも進出した。 詳細は「横浜市営バス若葉台営業所#23系統」および「神奈川中央交通中山営業所#三ツ境駅・十日市場駅発着路線」を参照 川崎市内でも、高津区、宮前区、中原区を中心として川崎市バスとともに駅間連絡や住宅地輸送の路線の展開が進められていき、川崎市バスとの共管路線も設定された。その一例が鷺沼線であり、1966年(昭和41年)の田園都市線開業により運行区間が鷺沼駅 - 小杉駅間となって以降、川崎市バスとの共管路線となった。一方で、東横線以東のエリアは川崎市バスや川崎鶴見臨港バスが既に多数の路線を運行することで基盤を固めていたため、東急バスの運行路線は川崎線や鹿島田線、駒岡線など僅かにとどまった。 詳細は「川崎市バス菅生営業所#有馬線」および「東急バス東山田営業所#鷺沼線」を参照 都内では都心への新たな通勤手段として、首都高速道路経由路線が開通。1967年(昭和42年)には環七通りの開通に合わせて都営共管の環七線が誕生、東京都中野区、杉並区に再進出するなど、この時期は各地で目ざましい発展が見られた。翌1969年(昭和44年)の玉川線廃止に合わせ、渋谷 - 二子玉川・上町間で代替輸送を開始し、1977年(昭和52年)の新玉川線(現・田園都市線)開通まで続けた。 詳細は「東急バス大橋営業所#玉電代替からの出発」および「東急バス駒沢営業所#環七線」を参照 「東急田園都市線#新玉川線の建設」も参照 しかし、昭和40年代半ばころを境に輸送量は減少に転じることとなり、特に都内では新たな鉄道の開通や渋滞の悪化によりバス離れが急速に進んだ。そこへ共同運行している都営バスの経営再建計画がのしかかってくる。昭和50年代に入ると都心直通路線が国鉄山手線を境に分断されるなどの大幅な路線整理が行われ、東京駅直通は自由が丘線が残るのみとなって東京都中央区から撤退。また渋谷 - 調布線と二子玉川 - 調布線が小田急単独に変更されて東京都狛江市・調布市から撤退。それに加え環七線が新代田駅で分断されたことで中野・杉並・新宿の3区からも撤退した。 詳細は「東急バス目黒営業所#自由が丘線」および「小田急バス狛江営業所#調布南口線」を参照 「都営バス#路線再編・都電の廃止」も参照 この過程で旧池上電鉄由来の中延や駒沢など、都内の営業所を一部廃止。入れ替わりに青葉台や虹が丘など、急速な発展を見せていた神奈川県内の拠点が増強された。玉電代替用に投入され、新玉川線開通で余剰となった大型長尺車は多くが神奈川県内に転出していった。
※この「昭和30年代以降」の解説は、「東急バス」の解説の一部です。
「昭和30年代以降」を含む「東急バス」の記事については、「東急バス」の概要を参照ください。
昭和30年代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 09:30 UTC 版)
1959年(昭和34年)、国鉄が貨車の発注にグループ制度を採用したことに伴い、輸送機工業は日本車輌製造とグループとなり、共同でワム70000形500両の製造を受注した。輸送機工業はこのうち180両の完成車体を製造したほか、同車の部品製造を担当した。この受注以降、輸送機工業は車両部品を製作し、日本車輌が最終的な組み立てを担当することとなり、国鉄向け完成品車両の製造はなくなった。 1961年(昭和36年)には同じく日本車輌製造と共同でワム60000形総計2,500両の部品製造を受注したほか、富士重工業宇都宮製作所、新三菱重工業(現・三菱重工業)三原製作所、飯野重工業(→舞鶴重工業→日立造船に合併)舞鶴工場からも、貨車部品の製造を受注した。 1972年(昭和47年)、日本鉄道車輌工業会の提言を受けて、国鉄は貨車製造メーカーを6社体制から3社体制に見直した。この結果、輸送機工業は部品製造のみを担うこととなった。 鉄道車両以外への進出 1955年(昭和30年)からはトラック及びバス用ディスクホイールの生産を開始し、以降順調に売り上げを伸ばすに至った。 1963年(昭和38年)、日産ディーゼル工業(現・UDトラックス )からクレーンキャリアのフレーム生産を受注し、1966年(昭和41年)からは日産ディーゼル工業からクレーンキャリア全車種の総組立を受注した。クレーンキャリアの製造は、のちに輸送機工業の主力製品になるまで急成長した。トラッククレーンと同時期にトレーラー(被けん引車)の生産が開始され、のちに輸送機の主力製品になる。 1960年(昭和35年)からは集合住宅向け玄関ドアを製造開始した。
※この「昭和30年代以降」の解説は、「輸送機工業」の解説の一部です。
「昭和30年代以降」を含む「輸送機工業」の記事については、「輸送機工業」の概要を参照ください。
昭和30年代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 11:42 UTC 版)
浅草東映劇場東映直営の封切館。「十二階」の跡地、建物疎開した「昭和座」の跡地に建設。1956年10月開館。2003年(平成15年)5月22日に閉鎖。取り壊され、跡地にパチンコ店「サンシャイン浅草」が開店したが2020年1月に閉店。2022年3月居抜きのままスーパーマーケットオーケーが入居開店した。 浅草東映パラス東映直営の洋画封切館。東映洋画系。浅草東映劇場2階、上記同様に閉鎖。 浅草東映ホール東映直営。浅草東映劇場地下。名画座、成人映画封切を経てにっかつ封切の「浅草日活」。のち松竹に賃貸して「浅草松竹映画劇場」(3代目の移転場所)になるが、最終的に「浅草東映パラス1」となる。上記同様に閉鎖。 浅草新劇場邦画名画座。中映株式会社経営。東宝・松竹・大映・日活の名作を組み合わせて上映。ただし、その組み合わせ方は一種異様で独特(チャンバラ映画とヤクザ映画と純愛物、封切終了直後の話題作とB級喜劇とアイドル映画など)。元々は実演劇場で「江川劇場」。戦時中は松竹の経営となり「浅草松竹新劇場」と改称。清水金一の実演が売り物であった。その後松竹傍系の中映に移管され、名画座になる。2012年10月21日閉館。新劇会館・中劇会館ともに建物が老朽化したため、一括して再開発を行う。これで六区から映画館が完全に消滅した。 浅草世界館中映経営。成人映画上映。浅草新劇会館地下。1964年(昭和39年)10月開館。2012年9月17日閉館。 浅草シネマ中映経営。成人映画上映。浅草新劇会館地下。当初大勝館内に開館。のち新劇会館内のストリップ劇場「カジノ座」の跡に入居。2012年9月25日閉館。 浅草座株式会社浅草座(中映関連企業)経営。浅草新劇会館地下。ストリップ劇場。同系列の浅草美人座、浅草カジノ座を含め「ABCライン」と称した。閉鎖後浅草カジノ座が移転。さらに上述の浅草シネマが移転した。 浅草中映劇場中映経営。洋画名画座だったが、晩年は邦画名画座。旧大都劇場、浅草新東宝劇場、浅草映画劇場。浅草中劇会館内。2012年10月21日閉館。 浅草名画座中映経営。成人映画を上映していたが、晩年は邦画名画座。浅草中劇会館内。2012年10月21日閉館。 百万弗劇場 ストリップ劇場。キリン館(旧アウル館)⇒観音劇場の跡地(元国際劇場斜向)。渥美清が専属コメディアンとして在籍。1948年6月開場、1952年10月閉鎖。現在は商店に分割。 浅草花月劇場 吉本興業直営。戦前はレビューの「吉本ショウ」を上演。「あきれたぼういず」を売り出す。高見順の代表作『如何なる星の下に』(1939年(昭和14年) - 1940年(昭和15年) 連載)の舞台ともなった。戦後「浅草グランド劇場」と改称して洋画封切館に転身。その後、浅草花月劇場に名前を戻し軽演劇や女剣劇を上演。1960年代以降は東映作品を中心とした邦画名画座に転換。漫才ブーム終了直後に閉鎖(1985年2月19日)。当時は吉本が東京で運営する唯一の事業所であったが、吉本側では既に浅草は終わった場所として見限っていたため、漫才ブーム後躍進した吉本の東京の拠点には成り得なかった。現在は「浅草パークホールビル」(JRA WINS別館)。なお、吉本興業は2006年(平成18年)11月から2015年(平成27年)7月まで、同地ではなく浅草観音裏の言問通り沿いにある雷5656会館5階のトキワホールにて「よしもと浅草花月」と銘打った演芸興行を定期的に行っていた。 浅草ロック座 東宝の泰豊吉社長にストリップショウの有望性を説かれた東洋興業の松倉宇七が開業。戦後の浅草の中心的存在となり、特にストリップは東洋興業と中映がしのぎを削って発展させた。ロック座には踊り子(ストリッパー)の他有能なコメディアンが数多く在籍して隆盛を誇っていたがストリップを取り巻く環境が変化し、関西発祥の猥雑な興行形態が主体となるにつれ東洋興業はストリップ興行からの撤退を決意。人気ストリッパーの東八千代(斎藤智恵子)と歩興行の契約を結び運営一切を委譲。まもなく正式に売却し、斎藤の手により改築され内装・興行形態も一新。関西系の猥雑な内容を一切行わず、レビュー形式の舞踊を主体とした興行形態がロック座のスタイルとして確立し、ロック座チェーンの旗艦劇場として現在に至る。 浅草東宝劇場東京楽天地経営。1964年(昭和39年)10月29日開場。東宝封切館であったが深夜興行には独特のプログラム(クレージーキャッツ特集、ゴジラ特集など)を組んでいた。元々は1954年4月から浅草楽天地の遊戯施設「楽天地スポーツランド」があった箇所。2006年(平成18年)2月13日閉鎖。これで六区から封切館が消滅。2012年4月に取り壊された。跡地は後述の浅草宝塚劇場跡地と共に東京楽天地の手により一体で再開発され、2015年12月に商業施設まるごとにっぽんとリッチモンドホテルプレミア浅草インターナショナルが開業したが、まるごとにっぽんは2020年11月閉館。2021年6月ユニクロが跡に入居開店し、まるごとにっぽんも一部復活した。 浅草スカラ座東京楽天地経営。浅草東宝劇場内に併設。東宝洋画系であった。 浅草宝塚劇場東京楽天地経営。1952年(昭和27年)9月2日開場。開場番組は宝塚歌劇団の公演。東宝洋画系の映画館であるが、実演の興行も行われた。1968年(昭和43年)7月12日閉館。取り壊されたのち、1969年(昭和44年)7月9日「楽天地浅草ボウル」に改築されたが、これも再開発に伴い2010年1月31日をもって閉鎖されて2012年4月に取り壊された。 浅草テンプル劇場東京楽天地経営。浅草宝塚劇場館内。浅草宝塚地下劇場として1952年9月に開場。東宝洋画系。 大勝館映画館。1962年(昭和37年)まで松竹洋画系のロードショー劇場。松竹・中映が長年経営していたが斜陽により1971年(昭和46年)10月11日をもって閉鎖。独特のゴシック様式の建物が取り壊されたのち、1972年(昭和47年)12月に「浅草中映ボウル」に改築されるが、1977年には館内にキャピタル、ロマン(いずれも2階)、アポロ(地階)の各映画館が設けられる。キャピタルは洋画名画座だったが、ロマンとアポロはいずれも成人映画を上映していた。1980年代半ばに全館が閉鎖されてしまい、空家状態のまま長年放置されていた。 浅草大勝館大衆演劇を上演する劇場。浅草ロック座の斎藤智恵子が経営していた。中映が放置していた上記建物を2001年(平成13年)に買収し、館内を大改装して大衆演劇用劇場に転向。しかし2007年(平成19年)9月に老朽化に伴う再改築のため一時休業。再開後は名実共に大衆演劇の殿堂に相応しい劇場が誕生する予定とされたが、改築の目処が立たず、再度中映放置状態と同様に周囲を鉄製の仮設塀に囲まれた状態で廃墟建物として晒されていた。2012年に漸くドン・キホーテが借地権と建物を買い取って取り壊し、同社店舗を核とした再開発ビルをオープンさせた。 浅草カジノ座中映経営。ストリップ劇場。大勝館の地下にあった。1971年(昭和46年)に浅草新劇会館内(浅草座跡)に移転。 浅草フランス座 ⇒ 浅草東洋館東洋興業経営。ストリップ劇場。渥美清、萩本欽一、ビートたけしを輩出し、劇作家としても井上ひさしを世に送り出した伝説の劇場。東洋興業撤退後はビートたけしの師匠・深見千三郎(久保七十二)が歩興行の契約を結び、一切を執り仕切っていた。深見の死後も興行を続けていたがストリップの退潮に抗しきれず、遂にストリップ興行を打ち切り舞台を改装。「浅草フランス座演芸場・浅草東洋館」と改称して漫才協会、東京演芸協会、ボーイズバラエティ協会といった各色物団体や落語協会(正月上席)と提携した演芸興行を行い現在に至る。なお、月末には独自に若手芸人主体のお笑いライブを開催している。 浅草東洋劇場東洋興業経営。軽演劇を上演。1964年(昭和39年)、上記フランス座を取り壊して開場。1971年(昭和46年)、上階にあった寄席・浅草演芸ホールが移転する形で閉鎖。 浅草演芸ホール東洋興業経営。落語定席。1964年(昭和39年)、浅草東洋劇場上階に開設。1971年(昭和46年)、浅草東洋劇場跡に移転。 浅草千代田館 映画館。中映経営。かつては生駒雷遊が専属弁士となった時期があった。のち、大蔵貢が買収したこともある。中映経営後はその大蔵が経営していた新東宝の封切館となった時期もあった。最晩年は成人映画を上映していた。壁面の楽譜を象ったネオンサインが独特。1976年(昭和51年)2月に閉鎖。 浅草電氣館 1903年(明治36年)、日本初の映画封切館として誕生。のち、松竹の経営となり戦前は新興キネマ、戦後は大映の封切館となった。大映倒産後に中映に移管されて東映封切館になるが、1976年(昭和51年)2月に閉鎖。跡地は千代田館跡地と共に「浅草蚤の市」会場となっていたが、現在は飲食・住宅の複合施設「電氣館ビル」。 浅草日活映画劇場 浅草富士館。日活直営。1800人収容の大勝館・帝国館と並ぶ大規模劇場。閉鎖され、日活は建物を新世界興業に売却。改装の上、新世界内にあったキャバレー・新世界が移転して営業していた。その後取り壊され、現在はパチスロ店パンドラ。 浅草アンコール劇場 もともとは「テアトル浅草」という名前の映画館。公園劇場に改称して実演を上演。軽演劇やストリップ、女剣劇と興行形態を転々とし、この名前で名画座となった後廃座。パチンコ店に転換した。松竹直営。現在は浅草ROX。 浅草松竹映画劇場(初代) 浅草帝国館。松竹直営。浅草を代表する映画館の一つであったが、1983年(昭和58年)に閉鎖された。現在は浅草ROX。 浅草松竹演芸場 松竹直営。軽演劇と色物専門の演芸場。現在は浅草ROX。 浅草松竹座 松竹少女歌劇の本拠地。1963年5月には早くも廃座となり、同年12月には「浅草松竹ボーリング」に改装。のちボウリングブームの下火により再改装して丸石家具センターに賃貸していたが、1983年に取り壊された。現在は浅草ROX。 浅草東京クラブ 松竹直営の名画座。かつては隣接する金竜館・常盤座と三館共通制を採っていた。後ろから見ると芋虫の様な独特の形態をした建物であった。現在は閉鎖され、ROX3G(スーパーマルチコート併設)。 浅草ロキシー映画劇場 浅草金竜館。松竹直営。洋画を上映。戦前及び終戦直後は松竹洋画系の基幹劇場であり、松竹の洋画関連部署である「ロキシー興行社」が同劇場内に所在していた。のち洋画の成人映画封切となるが、1983年(昭和58年)、「浅草松竹映画劇場」(2代目)と改称し松竹封切館になる。現在は閉鎖され、ROX3G。 浅草常盤座 根岸興行部が建てた公園六区最初の劇場。根岸大歌劇団(浅草オペラ)の本拠だった時代も。松竹系の常盤興行を経て松竹直営となり、戦後森川信一座の軽演劇等で好評を博す。1965年(昭和40年)に中映に移管され、「浅草トキワ座」と改称。邦画名画座になるが不採算のため閉鎖。空家状態が続いたのを、おかみさん会が松竹から賃借して演劇の定期興行を再開した。しかし再開発に伴い松竹が権利をTOCに譲渡し、閉鎖された。現在は浅草ROX3G。 浅草日本館 松竹直営。邦画の下番線館であったが、末期は松竹(東活)系成人映画の封切館であった。閉鎖され、現在は浅草ROX2G(TSUTAYAが入居)。 浅草六区ゆめまち劇場 株式会社BIGUPシアター経営のレストランシアター。2014年(平成26年)4月、浅草六区130周年記念として浅草ROX4階に開場。WAHAHA本舗の若手グループ娯楽座の常設公演が行われていた。2019年5月契約満了に伴い閉館。現在はくら寿司 浅草ROX店。 浅草木馬館(公園四区)根岸興行部経営で安来節の定席だったが、現在は十条・篠原演芸場の手に移り、大衆演劇の劇場に転換。 浅草木馬亭(公園四区)根岸興行部経営。浪曲定席。1970年(昭和45年)5月上席開場。毎月1~7日の興行で講談が一席入る。このほか現在は毎月中旬に軽演劇「浅草21世紀」の定期公演も行う。NHK教育テレビ『日本の話芸』や日本テレビ『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』の収録が行われたこともある。ももいろクローバーZのシングルCD『ニッポン笑顔百景』のジャケット写真は木馬亭の舞台で撮影された。 浅草美人座(六区界隈) 中映経営。ストリップ劇場、2階は浅草ロマンス座(ストリップ劇場)。浅草小劇場⇒浅草ショー劇場(2階は浅草末廣亭)の跡。1951年開場、1954年閉鎖。現在は三平ストア。 国際セントラル劇場(六区界隈) 元国際劇場4階のストリップ劇場。1950年4月開場、1951年12月打止め。現在は浅草ビューホテル。
※この「昭和30年代以降」の解説は、「浅草公園六区」の解説の一部です。
「昭和30年代以降」を含む「浅草公園六区」の記事については、「浅草公園六区」の概要を参照ください。
- 昭和30年代以降のページへのリンク