建物疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 10:18 UTC 版)
法第5条ノ5で定められた防空空地について、既存の建築物の解体を命じ防空空地を造成できるよう改められた。つまり第一次改正の防空空地とは異なり、密集地の既存の建築物を強制的に除却し防火帯を設ける事を意図としている。実際の建物疎開は「都市疎開実施要綱」(1943年12月閣議決定)にて指定された大都市区部から適用され、空襲の激化により最終的に291都市で実施された。造成された防空空地は現在も公園や道路として一部残っている(防空緑地)。
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建物疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 17:57 UTC 版)
日本において当時の人の多くは家屋疎開とも呼んでいた。空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯(防空緑地・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去することである。跡地は、人々の避難先や復旧時のゴミ・資材置き場として役に立ったが、投下された焼夷弾の数が多量だったため、本来の目的である防火帯としての役割はあまり果たさなかったと言われている。 一部の地域では「爆弾が天井に引っ掛かるので、天井板は無くした方が良い」といった説が流れ、残された住宅の天井板だけを撤去することも行われた。都市空襲の場合、投下された焼夷弾が屋根を貫通した後に天井板で止まり発火する場合が多く、それを防ぐには有効であったと思われるが、工業地帯等に投下された爆弾の重量は平均500kg~1tであり、薄い木製の天井板の有無で影響を受けるとは考えられない。 建物疎開にあたっては、行政機関がその候補を選定し、選ばれた家屋はほぼ強制的に撤去されたため、当時は「強制疎開」とよばれた。疎開対象の選定に当たっては地域の有力者などからの「政治的助言」が大きく影響し、被差別部落に対する偏見や、個人的感情から対象に含められたと考えられるものも存在する。 建物疎開は終戦直前まで行われており、本土決戦に備えて人口2万人以上の小都市でも実施され、全国で約61万戸の建物が除却された。また、建物の除却には移転補償の給付がなされたが、敷地に関しては買収形態のものと借地形態のものの両方が存在した。建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的であった。瓦礫の撤去に携わったのは主に国民学校高等科(12歳~14歳)の生徒(授業の一環として取り入れられていた)や、女性を中心とした「勤労奉仕隊」、病気などで徴兵対象から除外されていた男性などであった。広島へ原爆が投下された当時も広島市内では既に数千人の学童を含む人々が屋外で建物疎開の作業に従事していた。当日も彼らは既に作業を始めており、炸裂した原爆による被害を受けることとなった。 建物疎開の跡は戦後そのまま道路になった場合が多く、代表的な例では横浜市の根岸疎開道路(馬場町~原町間)など数か所、広島市の平和大通り、京都市の御池通の左京区川端御池から中京区堀川御池間、大阪市道の上新庄生野線の東成区玉津3丁目から生野区林寺2丁目間、都市計画道路難波片江線の生野区鶴橋2丁目付近などがある。特に横浜のそれらと大阪市道豊里矢田線は地元住民から「疎開道路」と呼ばれている。
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