横浜の疎開道路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 06:35 UTC 版)
第二次世界大戦中の1944年1月、建物疎開の推進を目的に、横浜市に臨時疎開課が設けられた。同年4月に都市疎開事業の第1次指定が行われ、鶴見区で工場周辺の民家の除却が実施された。都市疎開事業は第1次から第10次指定まで行われたが、そのうちの第6次指定で、磯子区の堀割川下流近くの160戸の建物疎開と幅員8mの消防道路45か所が指定された。実際に横浜大空襲の際には延焼防止や住民の避難・消火活動に役割を果たした。現在まで愛称が残っているのは下記の5本で、坂下・磯子橋通と地名の付かない疎開道路は堀割川と交差し、根岸・滝頭疎開道路はそれぞれ堀割川の左岸・右岸で川に並行する。 根岸疎開道路 馬場町 - 原町、900m 坂下疎開道路 滝頭二丁目 - 坂下町、500m 滝頭疎開道路 丸山二丁目 - 中浜町、800m 疎開道路 久木町 - 中浜町、350m 磯子橋通疎開道路 下町 - 西町、770m
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