原爆による被害
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「長崎刑務所浦上刑務支所跡」の記事における「原爆による被害」の解説
当施設は爆心地から最短100メートルに位置していたため、甚大な被害を受けた。 庁舎と周囲を取り囲んでいた塀は一瞬にして崩壊し、周囲は瓦礫の山となり僅かに炊事場の煙突1本が残った。被爆時、刑務所内には職員18人、官舎住居者35人、受刑者および被告人81人(中国人32人、朝鮮人13人)の計134人がいたが、全員死亡した。先述の護国隊員らは被爆当時、約300人が長崎造船所立神工場にて従事しており難を逃れている。
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原爆による被害
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1945年8月6日の原爆投下に際し、広島師範学校男子部の校舎は爆心地から4㎞以上離れていたこともあり、先述の通りRC造の講堂が小破し、また木造2階建ての校舎の屋根が落ちて半壊になるなどの被害があり、皆実町にあった予科生の寄宿舎は全壊したものの、全般的に施設の損害は小さかった。また当日、生徒は勤労動員となっていたが、動員先も爆心地から遠隔の地であったため、犠牲者も比較的少なく、1945年中の被爆死者は教職員3名、生徒(予科生)6名であった。また男子部の附属国民学校の生徒は集団疎開中であったため同様に犠牲者は少なく、1945年中の被爆死者は教職員3名、生徒2名である。 新制広島大学移行後の1972年3月には広島大学原爆死没者慰霊行事委員会が発足して師範学校を含む広島大の旧制包括校の原爆犠牲者の慰霊事業が行われることとなり、その主要事業として1974年8月「広島大学原爆死没者追悼之碑」が建立された。この碑は広大本部が東広島キャンパスに移転したのちも東千田キャンパス内に残され、大学関係者によって毎年慰霊式典が行われている。
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原爆による被害
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「常清高等実践女学校」の記事における「原爆による被害」の解説
1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分に投下された原子爆弾により、爆心地(北緯32度46分24.8秒 東経129度51分47.1秒 / 北緯32.773556度 東経129.863083度 / 32.773556; 129.863083 (原爆落下中心碑))から600mの場所にあった常清高等実践女学校の校舎はかろうじて講堂を残しただけで、併設の修道院、幼稚園舎ともども破壊された。当時校地にいた修道女13名と修道生活志願者として修道院に居住していた14名が同年9月10日までに亡くなった。また学徒動員で隣接の長崎県立盲唖学校(現・長崎市橋口町、中華人民共和国駐長崎総領事館、地図)に設置されていた三菱造船所マルモ工場で作業中の生徒、引率していた教職員も犠牲となった。また現在の長崎信愛幼稚園北東側には原爆投下当時に倒壊した赤レンガを積み上げて作った塀が残されている。
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原爆による被害
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「三菱重工業長崎兵器製作所」の記事における「原爆による被害」の解説
太平洋戦争末期、長崎兵器は海軍の指令により大橋・茂里町両工場の約半数の工作機械を長崎市立商業学校、国道日見トンネル、住吉地区の住吉トンネル工場、本原地区の半地下工場、事務所を城山・山里国民学校、長崎師範学校といった市内の教育施設に分散疎開させていた。 原爆では、松山町の爆心地から南1.4キロメートルに位置していた茂里町工場と、北1.3キロメートルに位置していた大橋工場で人的・物的共に甚大な被害を受けた。 被爆直前の時点で、大橋・茂里町の両工場、および各疎開工場では職員や、工員として徴用工や動員学徒、女子挺身隊員ら17,792名(実働約10,000人)が在籍していたが、登原剛蔵所長を含む2,273名が死亡、5,679名が重軽傷を負った。 学校工場が置かれていた市立商業学校と長崎師範学校は、前者で108名、後者は54名の動員学徒が犠牲となった。その他にも、県立高等女学校、鎮西学院、瓊浦中学校、県立工業学校や、鹿児島の第七高等学校造士館といった県内外の学校から動員されていた数多くの学徒が、動員先や寮で亡くなった。 人的被害死者:2,273名(職員335名、工員1,358名、学徒580名) 負傷者:5,679名(職員361名、工員4,260名、学徒1,068名) 物的被害大橋工場・本部…全壊。 茂里町工場…全壊半焼。 疎開工場(市立商業学校)…全焼。 疎開事務所(長崎師範学校、城山国民学校、山里国民学校)…全焼。 寮(山王・西郷・銭座・御船蔵・住吉・浜口・清風)…全焼。 工作機械等被害…710台。 原爆により壊滅した大橋工場。写真は敷地南側の技術部屋上から北方・道ノ尾方面を望んだもの。 壊滅した大橋工場と純心高等女学校の焼け跡(手前)。同校から大橋工場へ動員されていた生徒のうち、30名が犠牲となった。
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原爆による被害
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「広島女子高等師範学校」の記事における「原爆による被害」の解説
1945年8月6日の原爆投下により、大半が木造2階建てであった女高師・附属山中高女の校舎は瞬時に大破・倒壊し全焼した。唯一のRC造建築であった体育館も先述の通り爆風で大破し、内部は全焼した。当日は開校したばかりの女高師の初授業が生徒全員(81名)を対象として予定されていたが、全員が被爆し、校舎の倒壊で下敷きになった10数名が死亡した。また附属山中高女の1・2年生333名は、当日市内雑魚場町(現:中区国泰寺町)での建物疎開作業に動員されていたため、原爆による熱線・爆風・放射線の直撃を受け、1名を残して全滅した。このため、広島女高師および附属山中高女は広島大学の旧制前身校のうち最も多くの被爆死者を出した学校となった。 敗戦直後の11月6日、千田町の学校跡地で最初の慰霊祭が挙行されたのを皮切りにいくどか両校の慰霊祭・法要が挙行され、以降8月6日には7回忌に至るまで法要が開かれた。1952年7月6日には、建物疎開の動員先である市内雑魚場町の荒神堂境内(現・中区国泰寺町1丁目)に両校の「殉国学徒之碑」が建立され、以後毎年合同慰霊祭が挙行されている。また平和公園内(大手町側)の原爆ドームから南側の「動員学徒慰霊塔」に向かう通路に設置されている階段は犠牲となった山中高女生徒の遺族により寄付されたものである。 新制広島大学移行後の1972年3月には広島大学原爆死没者慰霊行事委員会が発足して女高師を含む広島大の旧制包括校の原爆犠牲者の慰霊事業が行われることとなり、その主要事業として1974年8月「広島大学原爆死没者追悼之碑」が建立された。この碑は広大本部が東広島キャンパスに移転したのちも東千田キャンパス内に残され、大学関係者によって毎年慰霊式典が行われている。
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原爆による被害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 14:41 UTC 版)
1945年8月9日の原爆被災時、長崎経専の片淵校舎は爆心地から3km程度離れており、また金比羅山に遮られる位置にあった。そのため校舎は中破程度の損壊に止まり、被爆者の救護所に充てられた。9月以降は爆心地近くで壊滅的打撃を受けた長崎医科大学(長崎大学医学部の前身)の臨時本部がここに移転された。 しかし三菱兵器製作所大橋工場(爆心地から1.5km程度で現在の長崎大学文教キャンパス。ただし経専生の動員先は0.5km程度の城山国民学校内の事務所)などに教職員・学生が勤労動員されていたため、これを中心として多くの死傷者が出た(引率教官1名・学生26名が死亡)。
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