原爆忌
原爆の日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 09:40 UTC 版)
1945年7月まで、広島は空襲を受けていなかったが、多くの人は被害を予期し、人や荷物を都市から疎開させる作業を進めていた。谷本も教会の記録や備品を西郊外の己斐町の知人の屋敷に疎開させており、妻子は毎晩、北東郊外の牛田で寝るようにしていた。 広島市への原子爆弾投下があった8月6日に、谷本は友人の荷物を同じ屋敷に運ぶ手伝いをしていた。目的地に着いて庭先で休んでいた谷本は、閃光を感じた直後、とっさに庭石の陰に隠れて爆風をやり過ごした。市街から立ち上る雲を見た谷本は、爆風でつぶれた家を後にして、教会があり妻子がいる市街中心に向かった。 市の中心部に近づくと、至るところで家が倒壊し、そこここで火災が発生していた。北に大きく迂回してから太田川を泳いで渡り、川沿いに走っていくと、赤ん坊を抱いて逃げる妻に出くわした。妻子はそのまま牛田に行くことになり、谷本はさらに進んだ。避難所に指定されていた泉邸(今の縮景園)にたどり着くと、そこで多くの知人に会った。泉邸には怪我や火傷を負った人が多く逃げてきていた。谷本はこの後、日が沈むまで被災者の救援にあたった。水を欲しがる人に洗面器で水を与え、小舟を見つけて泉邸から少しずつけが人を対岸に移した。泉邸に火の手が迫ったときには他の元気な人たちとともに防火に努めた。夕暮れには焼け跡の防空壕から米を持ち出し、居合わせた隣組の女の人たちに渡して炊き出しを頼んだ。これが多くの人の夕食になった。 谷本は8月10日まで泉邸で負傷者の救護にあたった。戦争が終わったあと、8月下旬から、急に体調を崩して高熱を発し、1か月間、牛田の友人宅で寝たままとなった。その後、香川県の実家に戻り、さらに1か月かかってようやく回復した。放射線によるいわゆる原爆症である。
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