原爆による壊滅から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:58 UTC 版)
「中島町 (広島市)」の記事における「原爆による壊滅から現在まで」の解説
1945年8月6日の原爆投下によって広島は甚大な被害を受けたが、当時約1300世帯・約4400人が暮らしていた中島地区はほぼ全域が爆心半径500mの同心円内に入っており、街も住民も一瞬のうちに消滅した。また当日はこの地区で建物疎開作業が行われていたため、勤労奉仕で動員され中島本町・材木町の集合場所(爆心地からおおむね500〜600m)に集まっていた学徒(県立二中・市立高女・市立造船工業学校)や近郊地区(安佐郡川内村など)からの義勇隊員もほとんどが全滅した。 戦後の焼け跡には、被爆当日たまたま自宅を離れていたために生き残ったわずかな住民を含む人々が、400戸にのぼるバラックを建て居住していた。しかしほどなくしてこの地区に「中島公園」として市民公園の建設が計画され、最終的には1950年広島平和記念公園および平和大通りが作られた(この際、被爆時の地面に盛り土がなされた)ため、旧住民のほとんどは立ち退きをよぎなくされた。しかし1960年代になると、彼らのなかから、瞬時のうちに消滅した町と住民を追悼するとともに、古くからの盛り場として、またモダン文化の拠点として中島地区が栄えていたことを懐かしみ、被爆前の街並みのありようや被爆の実相を記録に止めておきたいという動きが出てきた。この運動の成果は「爆心地復元調査」としてまとめられた(その後現在に至るまで復元調査は対象地区を拡大しつつ進行しており、中国新聞などの協力でより精密な復元地図が作製されている)。 戦後久しくこの一帯において戦前の界隈の名残を伝えていたのは、原爆に耐え焼け残ったレストハウス(旧「大正屋呉服店」)以外には、公園内の街路として残された中島本通、古刹・慈仙寺の跡地に残された墓石の残骸、および旧町民が跡地に建てたいくつかの慰霊碑だけであった。しかし2008年8月、平和公園内に旧中島本町・天神町・材木町・元柳町それぞれの戦前の街並み(当時撮影された写真画像も含まれる)を紹介する説明板が新たに設置されている。
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