説明板
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 23:33 UTC 版)
堂洞城は蜂屋の領主岸勘解由のたてこもった砦であります。天下平定を目指して尾張から美濃に攻め入った織田信長は、永禄八年(1565年)八月にこの砦を攻撃して落城させました。初め信長は、勘解由の武勇を惜しんで投降を勧告しましたが、主君である斎藤氏との義を重じた。勘解由はこれを固く拒んだため戦いとなり、信長は八月二十六日高畑山に本陣を構え、先に信長に通じていた加治田城主佐藤紀伊守と共に夕田・蜂屋の両面より堂洞城の攻撃を開始しました。勘解由の城兵と共に信長軍を迎え撃ち、辰の刻午前八時から申の刻午後四時までの八時間にわたって抗戦しましたが、長男信房は討死し、敵兵が内に乱入するに及び、城に火を放って妻と共に自害して果てました。ここにあります岩は、八畳岩と言い勘解由や城兵たちがこの岩の上で月見の宴を催したと伝えられています。 — 現地説明板「堂洞城由来」
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