原爆被災
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浅野図書館は戦中の時点で約9万冊を所蔵していたため、重要な蔵書を疎開させる計画を立てその一部を実施していた。このうち第1次疎開では漢籍など貴重図書8,411冊・絵図類約9,000点を光明寺(高取)、専念寺(沼田)、願行寺(沼田)、および浄土寺(五日市町)に移転しており、続いて予定されていた第2次疎開では、特別図書約10,000冊を50梱包にまとめ、その移転準備をすすめていた。またその他一部の図書を郡部に疎開していた。 しかし、1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下により爆心地より730mの位置にあった建物は全焼し、外郭を残すのみの状態となった。このため蔵書も第1次疎開によって避難していた書籍以外は焼失した。すなわち、先述の通り第2次疎開の対象に入っていた貴重図書は、その準備により玄関付近に置いたままになっていたため、すべてが焼失したのである。人的被害も大きく、職員も15人中4人が死去した。さらに、いち早く郡部に疎開し被爆の難を逃れていた図書も、同年9月枕崎台風による水害の被害にあい、一部が流失あるいは損傷した。
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原爆被災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 02:04 UTC 版)
1945年8月6日の原爆被災に際し宇品地区はその大半が爆心地から3km以上隔たった位置にあり、「半壊地区」とされているものの比較的被害が軽微であった。このため、宇品に駐屯していた陸軍船舶司令部(通称「暁部隊」 / 当時江戸家猫八・丸山眞男らが所属していたことでも知られる)は被爆直後から市街地中心部での救援活動に中心的役割を果たした。
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原爆被災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 02:12 UTC 版)
その当時市内に架橋されていた主要49橋のうち41橋が残った。その中で唯一この橋だけ、欄干が破壊され川に落下すると同時に鉄筋コンクリート床版が最大で1.5mほど浮き上がって破壊される現象が起きている。そこから今日では、被爆当時発生した衝撃波は橋を上から圧迫しただけでなく、本川の水面に反射し下からも圧迫したため、波打つ挙動となったと考えられている。当然当時の技術者は想定していなかった破壊現象であった。 主な破壊状況は以下のとおり。なお、ほとんどの映像は被爆から約8ヶ月後の1946年春に撮られたものであることに注意。 併用橋箇所 床版(上流側) メディアを再生する メディアを再生する メディアを再生する 被害 最大で歩道部分は1.2m(1.4mとも)・車道部分は0.4m上流側に移動。歩道部の一部は1.5m浮き上がる。 併用橋箇所 床版(下流側) メディアを再生する メディアを再生する メディアを再生する 被害 歩道部分は最大で0.4m上流側に移動、車道上に落下した。車道部分は移動せず。 併用橋箇所 床版(中央軌道部) メディアを再生する 被害 主桁上部に定着していたため移動は無かったが、無数の亀裂が発生していた。電車運転再開後は振動により亀裂がさらに進行した。 併用橋箇所 欄干 メディアを再生する メディアを再生する 被害 埋め込まれたI型鋼が"せん断"され、左岸下流側の一部を残して両側共に川に落下した。 併用橋箇所 主桁 メディアを再生する メディアを再生する メディアを再生する 被害 支承のアンカーボルト頭部が上流側にねじ切れており、主桁も動いていたことがわかった。桁自体は中央部分の支点の主桁がS字状に変形したが他はほぼ無事だった。よってその後の復旧工事の際に桁の補修はされていない。 連絡橋下部工・護岸 メディアを再生する メディアを再生する メディアを再生する 被害 広島市公式の原爆戦災誌 1971および土木学会誌 1950共に破壊状況が記述されていないことや、記録映像や米国戦略爆撃調査団の写真より、欄干は併用橋と同様に川に落下したものの、それは顕著な被害は不明。 併用橋と連絡橋の2つが乗る中央の橋脚の上部に亀裂が生じたが橋脚全体では被害はほとんどなく、この付近のみ間知石積の護岸が6箇所崩壊したものの橋台も被害はなかった。 併用橋の床版が車道部と歩道部でおのおの浮き上がったのは、この橋が爆心地から近距離だったことに加え当時の橋の構造に原因がある。これは床版の橋軸直角方向(主桁に対して直角方向)の鉄筋が軌道と車道および歩道の境界部分で分断されており床版それぞれが独立していたため、衝撃波による外圧がかかった際に縦方向におのおの別個に破断したと考えられている。 なお、相生橋床版の被害状況(上流側のほうが被害大)、下記表の橋梁被害状況、すぐ北側にあった広島護国神社の鳥居扁額の状況(相生通り側は吹き飛ばされず無傷)など、衝撃波による被害は真上から圧力がかかる爆心下より少し離れた位置のほうが大きくなっている。
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原爆被災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 18:14 UTC 版)
多聞院。 1945年原爆投下後の市中心部。中央やや右を縦断するのが相生通りであり、その道沿い手前から2つめのL字型の建物が旧・東警察署。 原爆被災分布図。また旧庁舎付近は全焼しているとわかる。最も右側を流れるのが猿猴川であり、その下流付近に東洋工業(小さな字で「TOYO INDUSTRIES INC.」)がある。また旧陸軍兵器補給廠は火災が発生しなかったとわかる。 1945年8月6日8時15分、被爆(爆心地から約900m)。庁舎周辺も含め壊滅した。 同日17時、戦災緊急避難先として指定されていた多聞院(右上地図の比治山公園の「比」の字の左側付近)に石原虎好警察部長により臨時「県防空本部」が設けられ、同日18時半には服部直彰中国地方総監府副総監が、同時刻頃福山市への出張によりたまたま難を逃れていた高野源進知事が到着、内務省への報告、救護班の出動命令が出されるなど、被爆直後の臨時の県庁として機能した。 翌8月7日朝、臨時県庁として東警察署(現広島銀行銀山町支店)に移転、救済活動や食糧放出などの対策が進められた。なお当地は現在広島銀行銀山町支店となっている。 8月20日、東洋工業(現マツダ)社長松田重次郎より土地を提供され、府中町の東洋工業講堂(3階建)に移転、全機関がこの敷地内で業務遂行を再開した。
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原爆被災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 10:11 UTC 版)
1945年(昭和20年)8月6日に投下された原子爆弾により広島市は壊滅状態に陥ったが、爆心地から約2.7km離れていた被服支廠は外壁の厚みが60cmと厚かったこともあって焼失や倒壊は免れ救護所として使用され、避難してきた多くの被爆者がここで息を引き取った。当時の惨状は峠三吉『原爆詩集』の詩「倉庫の記録」「仮繃帯所にて」に描写されている。 このとき爆風により大きく歪んだ窓の鉄製扉は、現在もそのまま残され、広島平和記念資料館には爆風で浮き上がったレンガ塀の笠木が切り取られ保存されている。
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原爆被災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 21:51 UTC 版)
1945年8月6日の原爆被災に際し、広島測候所では職員中に死傷者が出たり、観測機器が破損したり爆風で窓枠が曲がったりといった被害があった。また多くの負傷者が殺到し、その数は一万人を突破したといわれている。
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原爆被災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 06:23 UTC 版)
1945年(昭和20年)8月6日の原子爆弾投下では、爆心半径3.0km以内にあり、比治山の陰に入る位置にあったものの爆風により半壊ないしそれに近い被害を受けた。このため修道中学校・崇徳中学校・実践高等女学校(現:広島修道大学ひろしま協創中学校・高等学校)など勤労動員されていた生徒の多数が被爆・死傷した(当日の広島では、兵器廠以外にも建物疎開などに多数の学生・生徒が動員されていたため、動員学徒の全員が死亡した例も多い)。当時修道中学に在学していた平山郁夫(のち日本画家)もこの時負傷した学生の一人である。また被爆直後市内から撮影されたキノコ雲の写真の一つは、当日カメラを隠し持っていた動員学徒によってこの地点から撮影された。
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