原爆被爆
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ラッサールが被爆してしまうのも、当時日本と同盟関係にあった枢軸国側のドイツ出身であり、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争勃発以降も日本国外退去を免れたからである。1945年8月6日午前8時15分のその時、自室の窓際に立っていたラッサールは、背中に爆風で割れたガラス片を浴びることになってしまった。 以下はその時の様子のラッサール自身による直接証言である。 ちょうど朝の御ミサたててから、ちょっと立ったとき、突然何かの光が外であったんです。何のことだろうかと、何かの事件じゃないかと思いました。(略)けれどもその時に、原爆の音を全然聞かなかったんです。どうしてかといいますと、音はやはり時間がかかるでしょう。そのうちに、天井も何もかも滅茶苦茶になって、落ちて、これでもう、最後だと思いました。(略)でも、生きてました。それから、その日の夕方まで川のそばに座っておったんです。(略)ちょうどその時、周辺の学校の生徒が爆心地のあたりに働きに来てて、随分生徒たちは死んで、クラスの一人も生き残らないくらい、全滅に近かったんです。私も、一緒に死んだらよかったのにと思いました。(略)それでも、生きているのだから、どうにも働いてゆかなければなりませんね。それで、どうしたらいいかと考えました。やっぱり一つのお祈りするところをつくりたいと思いました。 — 『愛宮真備講演「世界平和記念聖堂の建築をめぐって-講演と対話」(建築家村野藤吾さんと世界平和記念聖堂を語る会編 / 昭和59年3月30日刊)より抜粋 重傷を負ったラッサールは、広島市郊外の祇園長束にあったイエズス会修練院まで担架で運ばれたあと、そこで援助修道会(英語版)(煉獄援助姉妹会)の看護を受けながら数週間床につかなければならなかった。 しかし同年12月には、石門と石塀だけが焼け残った幟町教会の敷地にまず2坪ほどのバラックを建て、そこを道具小屋兼住居として移り住む。翌年1946年(昭和21年)1月には、住宅営団から買い入れたプレハブ住宅を2棟つないで12畳ほどのスペースを確保し、とりあえず聖堂と伝道集会所の形が整うことになった。3月にはもう1棟分をつなぎ合わせて主任司祭の住居とし、4月には聖母幼稚園も再開。そして暮れも押し迫る12月になってようやく、焼け残っていた基礎の上に以前とほぼ同じ姿で司祭館が再建されたのである。
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原爆被爆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 18:00 UTC 版)
被爆を、原子爆弾や水素爆弾による被害に用いるのは、原爆被爆、水爆被爆の略である。被爆した人間を被爆者という。また被爆した建造物は被爆建造物、被爆した物については被爆◯◯(◯◯部分には右写真「鳥居」のように呼称が入る)、と言われる。
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