原爆被爆とは? わかりやすく解説

原爆被爆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:23 UTC 版)

フーゴ・ラッサール」の記事における「原爆被爆」の解説

ラッサール被爆してしまうのも、当時日本同盟関係にあった枢軸国側ドイツ出身であり、1941年昭和16年12月8日太平洋戦争勃発以降日本国外退去免れたからである。1945年8月6日午前8時15分その時自室窓際立っていたラッサールは、背中爆風割れたガラス片浴びることになってしまった。 以下はその時の様子ラッサール自身による直接証言である。 ちょうど朝の御ミサたててから、ちょっと立ったとき、突然何かの光が外であったんです。何のことだろうかと、何かの事件じゃないか思いました。(略)けれどもその時に、原爆の音を全然聞かなかったんです。どうしてかといいますと、音はやはり時間がかかるでしょうそのうちに、天井何もかも滅茶苦茶になって落ちて、これでもう、最後だと思いました。(略)でも、生きてました。それから、その日夕方まで川のそばに座っておったんです。(略)ちょうどその時周辺の学校生徒爆心地のあたりに働き来てて、随分生徒たち死んでクラス一人生き残らないくらい、全滅近かったんです。私も、一緒に死んだよかったのにと思いました。(略)それでも、生きているのだから、どうにも働いてゆかなければなりませんね。それで、どうしたらいいかと考えましたやっぱり一つお祈りするところつくりたい思いました。 — 『愛宮真備講演世界平和記念聖堂建築めぐって-講演対話」(建築家村野藤吾さんと世界平和記念聖堂を語る会編 / 昭和59年3月30日刊)より抜粋 重傷負ったラッサールは、広島市郊外祇園長束にあったイエズス会修練院まで担架運ばれたあと、そこで援助修道会英語版)(煉獄援助姉妹会)の看護を受けながら数週間床につかなければならなかった。 しかし同年12月には、石門石塀だけが焼け残った幟町教会敷地にまず2坪ほどのバラックを建て、そこを道具小屋住居として移り住む翌年1946年昭和21年1月には、住宅営団から買い入れたプレハブ住宅2棟つないで12畳ほどのスペース確保しとりあえ聖堂伝道集会所の形が整うことになった3月にはもう1棟分をつなぎ合わせて主任司祭住居とし、4月には聖母幼稚園再開。そして暮れ押し迫る12月になってようやく、焼け残っていた基礎の上以前とほぼ同じ姿で司祭館再建されのである

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原爆被爆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 18:00 UTC 版)

被爆」の記事における「原爆被爆」の解説

被爆を、原子爆弾水素爆弾による被害用いるのは、原爆被爆、水爆被爆の略である。被爆した人間被爆者という。また被爆した建造物被爆建造物被爆した物については被爆◯◯(◯◯部分には右写真鳥居」のように呼称が入る)、と言われる

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