原爆被災から浦上校地復帰まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 00:57 UTC 版)
「長崎医科大学 (旧制)」の記事における「原爆被災から浦上校地復帰まで」の解説
1945年8月の原爆被災で浦上校地の全校舎・病院施設が壊滅し使用不能となったため、その直後から大学本部は片渕の長崎商工会議所、長崎経済専門学校、次いで新興善国民学校に移転され、同国民学校を臨時の附属医院として膨大な数の被爆者の診療を行った(新興善校舎)。同年9月には大村市の旧海軍病院で診療・講義が開始(大村校舎)、翌46年にこれが諫早の旧佐世保海軍病院分院に移転した(諫早校舎)。ついで1947年には浦上の附属医院外来本館の修理が始まり、大学本部の一部と基礎医学教室が同館に復帰した。しかし諫早・新興善に残る臨床各教室(各科)が浦上に復帰し、附属病院(附属医院を改称)が完全に復旧したのは新制長崎大学発足後の1950年である。以後、浦上校地は長崎大学医学部(および歯学部)キャンパス(坂本町キャンパス)として継承され、現在に至っている。
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