原爆疎開とは? わかりやすく解説

原爆疎開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/01 06:41 UTC 版)

原爆疎開(げんばくそかい)とは、第二次世界大戦における太平洋戦争末期、新潟県新潟市において、原子爆弾が投下される可能性があると判断されて、都市部から住民疎開させたこと。第三発目の原子爆弾英語版1945年(昭和20年)8月19日以降に日本に投下予定だった。だが、2発の原爆投下とソ連対日参戦により鈴木貫太郎内閣8月10日ポツダム宣言受諾を連合国に伝達[1]、連合国側も受託し[2]8月15日玉音放送日本の降伏に繋がる[3]。第三発目の原爆は実戦に使用されず、そのプルトニウムは後に臨界事故を起こしてデーモン・コアと呼ばれた[4]

概要

レズリー・グローヴス中将からジョージ・C・マーシャル准将へ、3発目の原爆投下についての報告。マーシャルは手書きで「大統領の明確な許可なしに実戦投下を禁ず」と警告した。

1945年日本本土空襲で主要都市への空襲が本格化して敗戦が濃厚になる中で、日本政府は6月10日付で地方総監府を設立した[5]東部軍管区第1総軍隷下、第12方面軍担当)に対応する組織として関東信越地方総監府が新編され、新潟県も組み込まれた[注釈 1]

アメリカ合衆国による日本への原爆投下計画においては1945年5月時点で、京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市が有力候補であった。6月末、投下目標は京都、広島、小倉、新潟に変更された[7]ポツダム宣言が公表される前日の7月25日の時点で、新潟市は米軍(第20空軍第509混成部隊)の原爆投下候補の4つの候補地(他は広島市、小倉市、長崎市)の一つに挙げられていた[8][9]。しかし、8月2日の時点で候補から外された[9]。理由として、「工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域とが互いに遠く離れているため、この種の攻撃のためには不適当」と米軍に判断されたためであった[9][10]。また第一目標が広島に決定したのは、同市が日本陸軍の重要拠点であったことと捕虜収容所が無かったことも考慮されていた[11]

8月6日ガンバレル型ウラニウム搭載原子爆弾「リトルボーイ」がB-29戦略爆撃機により広島市に投下された[12]8月7日にはトルーマン米国大統領の原子爆弾実戦投下声明があり、日本政府と日本軍も確認した[13]8月9日爆縮型英語版プルトニウム搭載原子爆弾「ファットマン」が長崎市に投下された[14]日本への原子爆弾投下[9]。3発目の原子爆弾は「ファットマン」と同型で、マンハッタン計画を担任したレズリー・グローヴス中将は8月10日に「三発目の原爆は、8月19日以降に使用可能」と伝達した。目標は小倉市、新潟市、横浜市のいずれか。アメリカ合衆国政府の指導者たち(ハリー・S・トルーマン大統領、ヘンリー・A・ウォレス副大統領、ジェームズ・フォレスタル国防長官)は3発目の原爆投下について議論を続け、すぐに命令を出さなかった。

広島市や長崎市は、過去に空襲をほとんど受けていなかったため、次に原爆が落とされるのは、同様に空襲を受けていなかった新潟市という噂が市民に広がっていた[9]。当時の新潟市の人口は約17万人で、日本海に面した新潟港朝鮮半島から物資を輸送する拠点港であり、戦争末期には太平洋側のシーレーンが保てなくなるため、日本列島への物資受け入れ窓口として重要性が高まっていた[9]8月1日には、新潟県中越地方長岡市がB-29百機以上による長岡空襲により壊滅したが、新潟市は空襲をうけなかった。

8月6日以降、広島への原爆投下速報は日本国民を動揺させ、各都市でパニックが広まった[15]8月8日9日、日本政府は新型爆弾(原爆)に対する市民の対策と対処方法を発表した[16][17]。新潟県は、広島市を視察するために職員を派遣したが、途上の混乱で辿り着けず、内務省より得た断片的な情報をもとに報告書を提出した[9]。これを受けて、県幹部らが8月10日午後から緊急会議を開き、動揺と混乱を恐れた国(内務省)は疎開に反対の意思を示していたが、8月11日未明の会議終了後に畠田昌福新潟県知事が、新潟市民の緊急疎開させる「知事布告」を発令した[9][18]

知事布告を受けて、新潟市は8月11日午後1時30分から緊急町内会長会議を開き、疎開方針を説明した[9]。しかし、同日に各地の町内会長から住民に知らせる前の8月10日夜から緊急疎開の噂が広まっていたために、郊外に通じる道はいち早く荷物を山積みにしたリヤカーを引くなどして避難する市民で溢れ、パニックに近い状態となった[9][18]8月13日までに市中心部は緊急要員を残してゴーストタウンと化した[9]。しかし、この騒動の中でも極僅かながら避難しない人もいた[9]。その後、疎開した市民は8月15日玉音放送を聞いて終戦を知り、3日後の8月18日頃には市に戻った[9]

既述のように、アメリカ軍は8月下旬以降に、新潟市、小倉市、横浜市のいずれかに3発目の原爆を投下予定であった(9月には更に原爆3発が完成予定)。だが合衆国政府が3発目以降の原爆使用を検討しているあいだに日本政府が8月10日付でポツダム宣言受諾を伝達[19]、それに応じて連合国軍もB-29による戦略爆撃を一時停止した[20]。そして8月15日の玉音放送と降伏という事態になった[21]

脚注

注釈

  1. ^ 関東信越地方総監府は東京所在。埼玉県山梨県神奈川県千葉県栃木県茨城県群馬県東京都長野県新潟県を管轄した[6]

出典

  1. ^ 戦史叢書82, pp. 446–452五 八月十日(金曜 晴)―ポツダム宣言受諾の発電
  2. ^ 戦史叢書82, pp. 464–465米国の関係各国との交渉と回答の発送
  3. ^ 戦史叢書82, pp. 411–412, 428.
  4. ^ 米国は第3の原爆投下を計画していた 写真と地図と機密文書 20点”. natgeo.nikkeibp.co.jp. ナショナルジオグラフィック (2000年8月9日). 2025年7月28日閲覧。
  5. ^ 戦史叢書82, pp. 330–333臨時議会と地方総監部
  6. ^ 戦史叢書82, pp. 332–333地方総監府名称位置及管轄区域表
  7. ^ 米国は第3の原爆投下を計画していた 1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた”. natgeo.nikkeibp.co.jp. ナショナルジオグラフィック (2000年8月9日). 2025年7月28日閲覧。
  8. ^ 戦史叢書82, pp. 407–409原爆実験成功と投下命令
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m 安藤健二新潟がゴーストタウンになった日。知事が命じた「原爆疎開」」『ハフポストBuzzFeed Japan、2015年8月12日。2023年6月10日閲覧。
  10. ^ 「[交差点]原爆と新潟=新潟」『読売新聞読売新聞社、2009年9月13日。
  11. ^ 戦史叢書82, p. 408.
  12. ^ 戦史叢書82, pp. 414–415広島に対する原爆投下の状況 ― 米軍資料
  13. ^ 戦史叢書82, pp. 419–422原爆に関する米大統領の声明と日本側の動き
  14. ^ 戦史叢書82, pp. 441–442長崎原爆投下
  15. ^ 戦史叢書82, pp. 422–423.
  16. ^ 戦史叢書82, pp. 424–425原爆に関する調査と反響・対策
  17. ^ 戦史叢書82, pp. 443–445原爆対策
  18. ^ a b 「新潟が戦場になったら(新潟のイフ if:1) /新潟」『朝日新聞朝日新聞社、2004年1月1日。
  19. ^ 戦史叢書82, p. 451受諾発電と放送
  20. ^ 戦史叢書82, pp. 465–466敵の攻撃続行措置と戦略爆撃の一時停止
  21. ^ 戦史叢書82, pp. 501–502.

参考文献

  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<10> ―昭和二十年八月まで―』 第82巻、朝雲新聞社、1975年3月。 

関連項目


原爆疎開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/18 08:17 UTC 版)

新潟市の歴史」の記事における「原爆疎開」の解説

同日上記攻撃の後、多く市民疎開始める。翌8月11日広島長崎投下され原子爆弾新潟市にも投下されるおそれが高いとして実際に新潟市広島小倉長崎並んで原爆投下最終候補地となっていた)、新潟県新潟市に対して「原爆疎開」を命じ8月10日付の知事布告発表大半市民新潟市から脱出し8月14日までに市内はほぼ無人に近い状態となり、そのまま終戦迎え17日布告解除された。都市からの原爆疎開は史上唯一の出来事である。

※この「原爆疎開」の解説は、「新潟市の歴史」の解説の一部です。
「原爆疎開」を含む「新潟市の歴史」の記事については、「新潟市の歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「原爆疎開」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「原爆疎開」の関連用語

原爆疎開のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



原爆疎開のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの原爆疎開 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの新潟市の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS