新潟医科大学時代
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「新潟医科大学 (旧制)」の記事における「新潟医科大学時代」の解説
1922年3月31日: 勅令第143号 官立医科大学官制により新潟医科大学設置 (岡山と同時)。新潟医学専門学校は新潟医科大学附属医学専門部と改称、在学生を収容。 学部 (修業年限4年、旧制高等学校理科卒業者対象)・研究科・附属医院を設置。 1923年9月: 関東大震災で救護班を派遣 (計3回): 日暮里・亀戸・戸塚で活動。 1924年3月31日: 新潟医科大学附属医学専門部、廃止 (勅令第94号)。 1926年3月: 新潟医学大学としての第1回卒業生(18人)が卒業。 1927年9月: 同窓会 「新潟医科大学学士会」 発足。 1929年12月: 医専・医大の両同窓会が合併、「新潟医科大学学士会」 となる。 1939年5月15日: 臨時附属医学専門部を設置 (勅令第315号)。1939年6月: 臨時附属医専部、第1回入学。 1942年10月: 臨時附属医専部部歌制定。『清明 越の白雪に』 (村田成一 作詞、平井保喜 作曲)。 1944年3月31日: 臨時附属医学専門部を附属医学専門部と改称 (勅令第200号)。 1944年10月: 妙高高原町池ノ平に妙高修練道場を開設。 1945年6月: 附属医院看護婦養成科を附属医院厚生女学部と改称。 1945年7月: 空襲に備えて設備の間引き破壊を実施。 1945年8月12日: 原爆投下に備えて校外へ疎開 (原爆疎開)。 1946年7月: 『新潟医大新聞』 創刊。 1947年9月: 病院レントゲン科教室から出火 (漏電のため)。外科・内科教室、第二講堂全焼。第一講堂半焼。 1947年12月29日: 学長室で 「北日本総合大学」 設置運動会議を開催。 1948年1月: 新潟県知事、北日本総合大学構想を開示。この年、北日本総合大学実現を目指して街頭署名活動などが活発に行われた。 最終的に、新潟県内の官立 (国立) 高等教育機関と県立農専とで新潟大学を創設することとなった。 1949年5月31日: 新制新潟大学設置。旧制新潟医科大学・附属医学専門部は、医学部の母体として包括された。 附属医院は新潟大学医学部附属病院となった。 1949年6月: 附属医院厚生女学部を附属医院厚生女学部と改称。 1949年10月: 妙高修練道場を好山寮と改称。 1951年3月: 附属病院厚生女学部を医学部附属看護学校に改組。後の新潟大学医療技術短期大学部、現・医学部保健学科。 1951年4月: 新制医学部 (4年制) 開設。23日、第1回入学式。 1951年11月: 附属病院にて失火 (漏電のため)。外来棟・薬局・管理部を焼失。 1952年3月31日: 附属医学専門部 (旧制)、廃止 (法律第22号)。 1954年3月11日: 新潟大学新潟医科大学 (旧制)、最後の卒業。 1954年4月: 新制医学進学課程 (2年制) 開設。 1955年4月1日: 新制大学院医学研究科 (博士課程) 設置 (7月1日付 法律第44号)。 1956年5月1日: 新制大学院医学研究科、第1回入学式。 1960年3月31日: 新潟大学新潟医科大学 (旧制)、廃止。
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