原爆被災と戦後の復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 04:51 UTC 版)
発足間もない(新)藝備銀行にとって最初の試練となったのが1945年8月6日の原爆投下である。これによって本・支店16店舗のうち、市内中心部に所在する本店および塚本町支店・横町支店など8店舗が全焼し、被爆時の在籍職員432名の1/3におよぶ144名が死亡するなど大きな犠牲を払った。犠牲者のなかには、朝8時半から本店で予定されていた月曜日の定例朝礼に出ようと早朝出勤していたり、あるいは出勤する途中であった職員や、職域国民義勇隊として水主町(現在の中区加古町)に所在していた県庁付近で建物疎開作業をしていた約60名の職員が多く含まれると推測される。 爆心地から260mの位置にあった紙屋町の本店は、外形は残ったものの爆風によって屋根を押し下げられるとともに、直後に発生した火災が10日になるまで収まらず内部は全焼し、勤務していた20名が犠牲となった。鎮火後、本店に残された多くの遺体は性別も判断できない状態であった。爆心地から480mの塚本町支店もわずかに玄関アーチと外壁の一部だけを残して壊滅し、この日をもって同支店は廃止された。爆心地から1.76kmの京橋支店(現・的場町)も外形は残ったもの内部が全焼したため、支店は荒神町に移転され店舗としては廃止された。また東警察署として接収されていた旧下柳町支店(現・銀山町支店)は爆心地から1.2kmの距離にあって必死の消火作業で火災は食い止められたため、翌8月7日から臨時の県庁として使用された。 被爆2日後の8月8日午前10時、当行は橋本頭取以下25名が集まり、袋町の日本銀行広島支店に仮営業所を設けて営業を再開、無通帳・無印鑑のまま支払い業務を開始した。そして敗戦後の9月20日には本店での執務を再開し、10月9日には営業部も本店に復帰した。支払い業務は概ね行員の記憶に基づいて行われたが、さほど大きなトラブルは生じなかったという。イオニア式列柱で知られるRC造5階建・地下1階の初代本店(1927年築)は1949年4月に始まる復旧工事によって改修された。。そして、被爆5周年の1950年8月6日、藝備銀行は平和都市ヒロシマの知名度を活かすべく、廣島銀行と商号変更した。
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