フーゴ・ラッサールとは? わかりやすく解説

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フーゴ・ラッサール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/26 14:32 UTC 版)

フーゴ・マキビ・エノミヤ=ラッサールHugo Makibi Enomiya-Lassalle, 1898年11月11日 - 1990年7月7日)は、ドイツ生まれのイエズス会員で、カトリック教会司祭宣教師。日本語表記では姓と名がそれぞれ、フーゴーともラサールとも、あるいはまれにラッサルとも表記される。1948年昭和23年)に日本に帰化しており、日本名は愛宮真備(えのみや まきび)。英語版ウィキペディア “Hugo Enomiya-Lassalle”にある英語表記 Aiun-ken は、ラッサールの禅仏教上での名乗り愛雲軒の音訳。


注釈

  1. ^ 当時の山田節男広島市長から1968年(昭和43年)4月1日に広島名誉市民として顕彰された。「広島市名誉市民条例」が1962年(昭和37年)に制定されてから4人目であり、帰化人や外国人としては初めての受章である(石丸紀興1988、226頁)。昭和43年4月15日付の広島市報第264号に掲載された公告はその理由として、世界平和記念聖堂建設と日本国内外での募金活動、およびヒロシマの実情を広く知らしめるローマ、ドイツ、フランス、スイス、アメリカ、アルゼンチン、ブラジルなどでの数百回に及んだ海外講演活動のほか、戦前戦後にかけての上智大学、広島陸軍幼年学校広島高等師範学校広島文理大学でのドイツ語教育、さらにエリザベト音楽大学広島学院中学校広島学院高等学校設立への尽力またそこでの教育、その他教誨師としての活動、広島日独協会での交流活動、広島市郊外に禅道場を建設し実践や著作研究において仏教及び神道とキリスト教の相互理解を進めたことなど、10項目にわたってその功績をあげている。
  2. ^ 上智大学の創立者の一人で中心的メンバーであったイエズス会士ヨゼフ・ダールマンドイツ語版がドイツ人であったことによる。日本のイエズス会は1935年(昭和10年)2月5日から1949年(昭和24年)2月15日までの間、ドイツのイエズス会西管区に所属していた。ドイツ西管区より分離され準管区として独立するのは1949年(昭和24年)のことであり、1958年(昭和33年)に日本管区に昇格した。石丸紀興1988、19、21頁。
  3. ^ 開設当初の名称は「上智カトリックセツルメント」だったが、官憲への配慮からまもなく「カトリック」の文字が外された。その後「上智セツルメント」は1933年(昭和8年)に荒川区町屋に移転したのち、1955年(昭和30年)8月には社会福祉法人上智社会事業団「上智厚生館」となって2010年現在に至っている。社会福祉法人 上智社会事業団 公式HP-沿革、2010年9月23日閲覧。
  4. ^ イエズス会員は氏名のあとに、S.J.と記す慣習があり、S.J.とはSocietas Jesuの頭文字。
  5. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 12月号 2004年 (PDF) の5頁には、聖堂は150m2とあるが、石丸紀興1988の14頁には「建物は、すべて木造で、聖堂が80坪、司祭館が約50坪、伝道士宅及び家政婦宅(両者を合わせて伝道士館と呼んでいた)が約20坪であった」との記述がある。
  6. ^ 石丸紀興1988の23頁に拠った。 ジョン・ハーシー1949 の16頁では1.3kmとしているが、同書 vi の地図は爆心地を原爆ドームとしており、原爆ドームは真の爆心地と考えられている島病院より約100m北西に位置している。なお同書93頁にもその旨の記述がある 。
  7. ^ 石丸紀興1988の14、23-24頁によれば、当時教会に居たのは4名の神父たちの他、竹本神学生、深井渙二教区長秘書、星島伝道士とその家族、家政婦の村田夫人とされ、被爆時広島県庁に出勤していた星島父子を除いた星島伝道士の家族と幼稚園の保母2名が倒壊した建物から救出されている。星島伝道士の家族は一時行方不明となったものの、その後東練兵場に避難していたことが判明。しかし深井秘書は避難の途中で行方不明のままとされている。司祭館の中に居た4名の神父たちのうち無傷だったのはシースリックのみで、ラッサール、クライゾルゲ(帰化名:高倉誠)、シッファーの3名が負傷し、ガラスで左耳の上を切って出血多量に陥ったシッファーとラッサールが重傷だった。ジョン・ハーシー1949の34頁には「教会書記の深井さんは、宣教師館の二階の自室の窓際に立って、爆心の方向をむきながら泣いているのだ」との記述もあり、同書36頁によると深井さんは司祭たちと避難する途中ひとり炎の中に引き返し、同書72頁にはその後行方不明になったとある。
  8. ^ 石丸紀興1988の43頁には「一九四七年十二月(一説には秋)、日本に帰国したラッサール神父は、本格的に聖堂建設を実現に移すべく行動を開始したのである」との記述がある。
  9. ^ a b 「世界平和記念聖堂」は建設当初「廣島平和記念聖堂」と称していた。「世界平和記念聖堂」という正式名称が確定するのは、献堂式を間近に控えた1954年(昭和29年)7月23日のことだったが、関係者の間では当初より「世界平和記念聖堂」との合意があり、「廣島」の名を冠したのは募金活動を進めやすくするためだったという。石丸紀興1988、169-173頁。
  10. ^ 石丸紀興1988の223-224頁によれば、「設計代を初め頃いっぺんだけ差し上げましたが、その後は村野先生が何時も断りました」(愛宮神父による談)とあり、その額もわずかであったらしい、という。また、設計監理料はラッサール神父が現場で住み込みの担当者に直接渡したとの記述がある。
  11. ^ この「ちょっと変わった円屋根」のいきさつは、石丸紀興1988の44-46、116-117頁に詳しい。世界平和記念聖堂#建築意匠も参照。
  12. ^ 石丸紀興1988の144頁には、24から30万本ほど現場で作ったとある。
  13. ^ スイスツーク州にあるイエズス会の修道院の敷地の中に、参禅道場と宗教的セミナーのために新たに建てられたもの。設立者のベルギー人のイエズス会士ニコラウス・ブランチェン(禅仏教師名-悟雲老師)は、ラッサールの紹介で山田耕雲に師事し、のちに接心を指導することを正式に認可された「老師」の資格を持っている。設計はアンドレ・シュトゥーダー。swissinfo.ch 世界へ発信 スイスのニュース、 2010年9月23日閲覧。

出典

  1. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 4月号 2004年 (PDF) 、4-5頁。
  2. ^ a b c d e f g 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 3月号 2004年 (PDF) 、6頁。
  3. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 3月号 2004年 (PDF) 、4頁。
  4. ^ a b c d e f g 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 3月号 2004年 (PDF) 、5頁。
  5. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 6月号 2004年 (PDF) 、6頁。
  6. ^ カトリック広島司教区HP「広島教区・略史」、2010年9月30日閲覧。
  7. ^ ジョン・ハーシー1949 、16頁。
  8. ^ a b 丹下健三・藤森照信 2002、130頁。
  9. ^ ジョン・ハーシー1949 、15、26頁。広島記念聖堂HP 「世界平和記念聖堂の被爆した十字架」も参照。2010年9月23日閲覧。
  10. ^ 丹下健三・藤森照信 2002、130頁による。書式も同書のまま。
  11. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 6月号 2004年 (PDF) 、3頁。
  12. ^ a b c 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 7月号 2004年 (PDF) 、4頁。
  13. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 5月号 2004年 (PDF) 、3頁。
  14. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 3月号 2004年 (PDF) 、3-4頁。
  15. ^ a b c 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 7月号 2004年 (PDF) 、3頁。
  16. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 12月号 2004年 (PDF) 、6頁。
  17. ^ 丹下健三・藤森照信 2002、130頁による。なお同書からの引用に際して、原文の歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改めた。
  18. ^ a b 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 12月号 2004年 (PDF) 、3頁。
  19. ^ a b c 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 11月号 2004年 (PDF) 、6頁。
  20. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 9月号 2004年 (PDF) 、4頁。
  21. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 10月号 2004年 (PDF) 、3頁。
  22. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 4月号 2004年 (PDF) 、4頁。
  23. ^ a b c d e 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 創刊号 2004年 (PDF) 、4頁。
  24. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 4月号 2004年 (PDF) 、5頁。
  25. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 9月号 2004年 (PDF) 、4-5頁。
  26. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 10月号 2004年 (PDF) 、6頁。
  27. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 4月号 2004年 (PDF) 、6頁。
  28. ^ a b c d 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 創刊号 2004年 (PDF) 、5頁。
  29. ^ 大法輪閣1997 鈴木格禅「道元のさとり」102頁。
  30. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 7月号 2004年 (PDF) 、8頁。
  31. ^ ルカによる福音書「親切なサマリヤ人」
  32. ^ ベルクソン1979「道徳と宗教の二つの源泉」446頁。
  33. ^ ベルクソン1979「道徳と宗教の二つの源泉」444頁。
  34. ^ 大法輪閣1997 松濤誠達「釈尊のさとり」7-8頁。
  35. ^ 大法輪閣1997 西村惠信「臨在禅のさとり」74-76頁。
  36. ^ ヨハネによる福音書「わたしは葡萄の木」
  37. ^ 旧約聖書 ヨブ記 第42章1節-6節
  38. ^ 新約聖書 ヨハネの黙示録 第21章1節-8節
  39. ^ 古田 紹欽『禅とは何か』日本放送出版協会〈NHKライブラリー〉1996年、193頁。「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」(道元『普勧坐禅儀』)。
  40. ^ 大法輪閣1997 鈴木格禅「道元のさとり」99-101頁、106-107頁。
  41. ^ 旧約聖書 出エジプト記 第3章14節
  42. ^ 大法輪閣1997 鈴木格禅「道元のさとり」99-101頁。
  43. ^ 大法輪閣1997 梶山雄一「般若経とさとり」19-25頁。
  44. ^ アンリ・セルーヤ1975、114-118頁。
  45. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 7月号 2004年 (PDF) 、6頁。
  46. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 12月号 2004年 (PDF) 、10頁。
  47. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 創刊号 2004年 (PDF) 、6頁。
  48. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 7月号 2004年 (PDF) 、5頁。
  49. ^ Leben aus der Mitte、ドイツにある禅道場のホームページにあるフーゴ・ラッサールの肖像、2010年9月23日閲覧。
  50. ^ 世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース vol.1 5月号 2004年 (PDF) 、5頁。


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