東亜風土病研究所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 14:56 UTC 版)
「長崎医科大学 (旧制)」の記事における「東亜風土病研究所」の解説
日中戦争が全面化すると、中国大陸からの感染症の侵入を防止する研究の需要が高まり、1940年秋、長崎医大には病理学教室・細菌学教室を母体にした大陸医学研究班が設置された。翌年、同班は大陸医学研究所病理部と改称、病理・細菌2学科を設置し、1942年3月にはこれを拡充して東亜風土病研究所が開設されるに至った。 東亜風土病研究所は九州南部の風土病調査などを行う一方で、中国大陸の日本軍占領地で医療・衛生行政を担っていた同仁会と提携し、漢口などで野外調査を進めた。また当時長崎で大流行をみたデング熱の調査も行った(この時のデータは原爆被災を免れ現在も保存されている)。 1945年8月9日の原爆被災により、研究所は研究資料とともに一瞬のうちに焼失し、金子直教授(病理学)を始めとして多くの所員が爆死するなど大きな打撃を受け、研究活動は一時頓挫した。第二次世界大戦後の1946年4月、研究所は名称から「東亜」を削除して「風土病研究所」と改称、翌5月には諫早に移転して研究活動を再開した。 新制長崎大学の発足により風土病研究所は同大学の附置研究所となり、1960年には旧所在地である坂本町キャンパスへの復帰を実現、さらに1967年には国立学校設置法の一部改正により「熱帯医学研究所」と改称、現在に至っている(以後の沿革は当該項目参照)。
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