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東亜連盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/08 17:06 UTC 版)
『東亜連盟』(とうあれんめい)は、日本で刊行されていた雑誌。
概要
1939年11月東亜連盟協会(石原莞爾の指導により創立された国家社会主義団体。日本、満州、中国による「東亜連盟」の結成を構想、国防の共同,経済の一体化,政治の独立,文化の交流を掲げた。1939年創立、1946年占領軍により解散させられた[1])によって創刊される[2]。
創刊号では近衛三原則を掲げ、これにより戦争を終結させ和平の実現を目指す[2]。
繆斌の思想には『東亜連盟』と重なり合う部分があった。繆斌は田村真作を通じて『東亜連盟』を入手し、それの孫文の大アジア主義の主張との親近性を確認したといわれる[2]。
華北で新民会以外の団体活動が禁止されていた時期には、『東亜連盟』の刊行は唯一の合法活動であった[2]。
執筆者の総数は300人を超える[3]。
1996年、柏書房より『東亜連盟』の創刊号から最終号までの収録した全17巻の復刻版が刊行される[3]。
脚注
- ^ 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,世界大百科事典. “東亜連盟(とうあれんめい)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年3月4日閲覧。
- ^ a b c d 嵯峨隆「東亜連盟運動と中国」『法學研究 : 法律・政治・社会』第88巻第8号、慶應義塾大学法学研究会、2015年8月、51-86頁、CRID 1050845763882970624、ISSN 0389-0538。
- ^ a b c 「東亜連盟」復刻版柏書房株式会社
東亜連盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:24 UTC 版)
独ソ不可侵条約成立による平沼内閣倒壊で陸相を退き、支那派遣軍総司令部の初代総参謀長となってからは1939年9月15日の満州国承認記念日の演説で東亜連盟を強調し、宮崎正義の東亜連盟論と杉浦晴男の東亜連盟建設綱領に題字をおくり、第二次近衛声明(東亜新秩序声明)がこれに沿うものとするなど東亜連盟論者であった。板垣を慕った本部附きの辻政信とともに起草した 「派遣軍将兵に告ぐ」 で日満支三国による東亜連盟結成を訴え、板垣と会談した宮崎らは嘱託となり、辻の部下津野田知重は同じ派遣軍勤務の三笠宮崇仁親王とのちに東条暗殺を計画するなど支那派遣軍は和平工作の拠点となった。
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東亜連盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 06:10 UTC 版)
東亜連盟は日本人のみならず、中国人や朝鮮人からも多くの支持者がおり、東亜連盟等を通じて石原莞爾に師事したものに 福島清三郎(柔道家、建国大学教授、武術専門学校師範。東亜連盟のサロンとして機能した義方会道場において後述の牛島、大山、曹の師にあたる人物であった) 牛島辰熊(全日本2連覇の柔道家で、柔道史上最強といわれる木村政彦の師匠) 曺寧柱(在日本大韓民国民団会長、剛柔流空手道師範、大山倍達の師匠) 大山倍達(空手家。極真会館創設者) 武田邦太郎(農政と平和研究所所長、参議院議員) 里見岸雄(法学者、思想家、日本国体学研究者) 橘樸(ジャーナリスト・中国研究家、中国社会研究の先駆者) 木村武雄(政治家、建設大臣) 小澤開作(歯科医師、大陸浪人、指揮者小澤征爾の父、ミュージシャン小沢健二の祖父) 辻政信(陸軍参謀、衆議院議員、参議院議員) 等がいる。
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