東亜連盟参加から翼賛選挙出馬断念へ
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「棚橋小虎」の記事における「東亜連盟参加から翼賛選挙出馬断念へ」の解説
1941年3月16日、棚橋は東亜連盟の南信支部発足に関与してその発会式では座長を務めた。この発会式において南信支部長には林虎雄が選出されたが、のちに棚橋が支部長に就任した。棚橋の東亜連盟参加は他の旧社会大衆党主流派の人物たちと行動を共にしたもので、南信支部から分かれる形で同年6月には北信支部が、11月に中信支部がそれぞれ発足した。各支部は1942年12月当時で北信支部が28人、中信支部が120人、南信支部が143人の会員を擁し、独自の選挙地盤として形成されていった。棚橋は1942年に入ると、次期総選挙出馬に向けた動きを活発化させていく。これは、衆議院議員任期延長ニ関スル法律によって総選挙の実施時期の特定が可能であったからであり、棚橋は上京して推薦制の見通しを探ると共に、大政翼賛会への「売り込み」と旧社会大衆党員への「顔つなぎ」を行った。更に東亜連盟本部に赴き、木村武雄から「立候補の場合は千円補助す」という約束の取り付けに成功し、また原玉重 から「翼賛会事務総長横山助成の手に推薦してある」という連絡があるなど東亜連盟を通しても「売り込み」を展開していた。棚橋は東亜連盟ばかりでなく、右翼政党である大日本党や右翼系政治家として知られていた中原謹司が率いる東亜建設国民連盟長野県支部も通しながら総選挙に向けた動きを本格化させていったが、最終的に4月1日に翼賛政治体制協議会の推薦が受けられないことが決まったことを受けて第21回衆議院議員総選挙への出馬を断念した。 総選挙への出馬断念を決めた直後の4月10日、棚橋は松本市会議員選挙への出馬を志した。市会選挙においても推薦制が採用されたが、組織された松本市会議員翼賛選挙協議会に棚橋と親しい丸山恒人(片倉製糸松本工場長)や、松本中学同窓の多田助一郎などが入ったこともあり、5月9日に棚橋は推薦候補者になった。5月24日、前日までに非推薦の立候補者が出なかったことから、棚橋は無投票で松本市会議員に当選し、以後松本市会を中心に政治活動を展開していく。松本市会議員として棚橋は、1944年に大政翼賛会松本支部常務委員筆頭となり、さらに翌1945年には5月に松本市国民義勇隊参与、翌月には松本市参事会員となった。
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