東亜連盟参加から翼賛選挙出馬断念へとは? わかりやすく解説

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東亜連盟参加から翼賛選挙出馬断念へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 02:57 UTC 版)

棚橋小虎」の記事における「東亜連盟参加から翼賛選挙出馬断念へ」の解説

1941年3月16日棚橋東亜連盟南信支部発足関与してその発会式では座長務めた。この発会式において南信支部長には林虎雄選出されたが、のちに棚橋支部長就任した棚橋東亜連盟参加は他の旧社大衆党主流派人物たちと行動を共にしたもので、南信支部から分かれる形で同年6月には北信支部が、11月中信支部それぞれ発足した各支部1942年12月当時北信支部28人、中信支部120人、南信支部143人の会員擁し、独自の選挙地盤として形成されていった棚橋1942年に入ると、次期総選挙出馬向けた動き活発化させていく。これは、衆議院議員任期延長ニ関スル法律によって総選挙の実施時期特定が可能であったからであり、棚橋上京して推薦制の見通しを探ると共に大政翼賛会への「売り込み」と旧社大衆党員への「顔つなぎ」を行った。更に東亜連盟本部に赴き、木村武雄から「立候補場合千円補助す」という約束取り付け成功し、また原玉重 から「翼賛会事務総長横山助成の手推薦してある」という連絡があるなど東亜連盟通しても「売り込み」を展開していた。棚橋東亜連盟ばかりでなく、右翼政党である大日本党や右翼政治家として知られていた中原謹司率い東亜建設国民連盟長野県支部通しながら総選挙向けた動き本格化させていったが、最終的に4月1日翼賛政治体制協議会推薦受けられないことが決まったことを受けて第21回衆議院議員総選挙への出馬断念した総選挙への出馬断念決めた直後4月10日棚橋松本市会議員選挙への出馬志した市会選挙においても推薦制が採用されたが、組織され松本市会議員翼賛選挙協議会棚橋親し丸山恒人(片倉製糸松本工場長)や、松本中学同窓多田一郎などが入ったこともあり、5月9日棚橋推薦候補者になった5月24日前日までに非推薦立候補者が出なかったことから、棚橋無投票松本市会議員当選し以後松本市会を中心に政治活動展開していく。松本市会議員として棚橋は、1944年大政翼賛会松本支部常務委員筆頭となり、さらに翌1945年には5月松本市国民義勇隊参与翌月には松本市参事会となった

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