東亜紡織に勤務していた時代
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「沢井余志郎」の記事における「東亜紡織に勤務していた時代」の解説
1928年(昭和3年)静岡県浜松市周辺の雄踏町に生まれる。学歴は高等小学校卒業。その後に浜松工業学校(静岡県立浜松工業高等学校)紡織学科を卒業した。浜松工業学校紡織学科では紡績産業の知識と繊維工業の工業技術を学習した。繊維業界で活躍したいと大志を抱いた沢井は、昭和20年代に将来性のあった大手繊維企業の東亜紡織(後のトーア紡コーポレーション)に入社し、泊工場の染織部門に配属され、染織部門の片番の責任者を務める。東亜紡織の係長業務の傍ら、文化活動として、1949年(昭和24年)6月に東亜紡績泊工場内に以下のサークルを結成した。 サークル活動 音楽サークル 演劇サークル 文学サークル 映画サークル 無着成恭編集の『山びこ学校』を読んで啓発されていた。10代と20代の若い女性労働者である若い女工たちと共に「生活を記録する会」を発足させて、女工と東亜紡績の工場労働者の文化活動である東亜紡織泊工場内のサークル活動の中心的人物となった。「生活を記録する会」は後に労文文学サークルである労働文学サークルとなり、別名「労働文学山びこ学校」と呼ばれた。女性労働者の出身地は、伊那谷(長野県出身者が多かった)から四日市へ、農村の貧困家庭出身者が多かった彼女らが、農村の貧しい家庭の収入を補うために、東亜紡織泊工場に中学卒業の「金の卵」として就職してきた。多くの若い娘たちの様々な悩みの相談相手になった。仕事問題の悩み・経済問題の悩み・教育問題の悩み・男女問題の悩み・社会主義思想として農村の貧困の意味・工場労働の仕組み・労働問題について・経済構造の研究・資本主義と社会主義など貧富の差でおきる格差問題などの経済思想や近代社会の矛盾を女工と共に語り合い、貧困問題を解決する目的の生活を記録する会は後に、文集の「私の家」、「私のお母さん」、「母の歴史」、「新しい愛情」を次々と発行した。集団の創作劇である『明日を紡ぐ娘たち』(劇団の「三期会」による上演)も成功させた。 以上の作品は無着成恭・清水幾太郎や文学者の批評を得る一方で、劇作家の木下順二・評論家の鶴見和子・作家の野間宏ら文化人に大いに作品評価をされて、文化人の足を東亜紡織泊工場まで運ばせる事にもなった。4つの文集と木下順二らの体験談は1954年(昭和29年)に『母の歴史―日本の女の一生』、1956年(昭和31年)に「仲間のなかの恋愛」として河出書房から出版されたことで日本中に有名となった。しかし以上の文化活動や文筆業などの作家活動が間接的な原因となって、東亜紡績の経営者の逆鱗に触れて反企業行為として、沢井は「解雇通知」を受ける。
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