東亜競技大会開催へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/25 20:51 UTC 版)
1939年11月東洋体育協会を解消し、新たに日本・満州・フィリピン(フィリピン・コモンウェルス)・中華民国(汪兆銘政権)・タイ王国・ビルマ(イギリス統治下のビルマ)で"大東亜体育協会"を設立する。そして、東京五輪の代わりの大会として、更に紀元二千六百年記念行事として、1940年6月に日本で「東亜(あるいは興亜)競技大会」開催が決定した。日本は「東亜スポーツ体制の新たな位置づけ」と銘打っている。資料によってはこの大会は日満華交歓競技大会の発展型、つまり第1回東亜競技大会は事実上第2回交歓競技大会であると結論づけているものもある。 日本で国際的な競技大会が開かれるのは第9回極東選手権競技大会以来、10年ぶりのことであった。ただ都合2回開かれたこの大会に参加したすべての国のうち、満州・中国(汪兆銘政権)・モンゴル(蒙古聯合自治政府)は日本と結び付きが強く、フィリピン・ハワイは事実上アメリカ自治領だったがハワイにおける日本人移民が参加した、という側面がある。 日本国内メディアも扱いは様々で、例えば日本映画社撮影の国策映画「日本ニュース」(右下の動画)に取り上げられる一方で、朝日新聞社発行『運動年鑑』(#参考資料参照)では全大会の記録は明治神宮競技大会の後に記載されている。
※この「東亜競技大会開催へ」の解説は、「東亜競技大会」の解説の一部です。
「東亜競技大会開催へ」を含む「東亜競技大会」の記事については、「東亜競技大会」の概要を参照ください。
- 東亜競技大会開催へのページへのリンク