東亜局長時代とは? わかりやすく解説

東亜局長時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 17:57 UTC 版)

石射猪太郎」の記事における「東亜局長時代」の解説

船津和平工作」、「トラウトマン和平工作」、および「宇垣工作」も参照 その後1936年の駐シャムタイ大使経て1937年3月外務省東亜局長抜擢される。 盧溝橋事件では不拡大方針強く主張し広田弘毅外相通じて軍部主張する三個師団動員阻止しようとしたが、7月11日三個師団動員案は閣議決定された。石射は上村伸一東亜課長とともに辞表提出しようとしたが、広田慰留された。 石射はなおも拡大阻止動き陸軍省軍務課長柴山兼四郎大佐とも協力して和平への道探ったが、郎坊事件広安門事件発生果たせず、日中全面衝突することとなった。 石射によると、7月29日昭和天皇から近衛文麿首相に「もうこの辺外交交渉により問題解決してはどうか」との言葉があったという。これに力を得た和平派は、船津辰一郎上海派遣して高宗武亜洲司長と会見させ、停戦交渉への道を開こうとしたが、第二次上海事変勃発により工作頓挫した11月には、ドイツ日中和平向けた斡旋行ったトラウトマン工作)。12月13日には、その斡旋案を審議すべく五相連絡会議開かれ、石射も会議の場に出席した。各大臣からは日本戦況有利を背景に、和平条件加重する発言相次いだ結果中国側が到底飲めないような厳し案文になった。 石射は発言権のない立場にもかかわらず、思わず「かくのごとく条件加重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう」と発言した無視された。絶望した石射は、当日日記に「こうなれば案文などどうでもよし。日本は行く処まで行って行き詰らねば駄目と見切りをつける」と記している。 1938年5月には、広田にかわり、宇垣一成陸軍大将外相就任した。石射は就任まもない宇垣に「何とぞ大臣お力で「国民政府相手とせず」を乗り切っていただきたい」と和平への努力要望し宇垣賛意示したという。外相就任した宇垣は、早々に近衛声明再検討表明し駐日英国大使ロバート・クレイギーや駐英国大使アーチボルド・クラーク・カー(英語版)などを介し中村豊香港総領事通じて孔祥熙国民政府行政院長、孔の秘書喬輔三らと極秘接触し蔣介石政権側から現実的な和平条件引き出し成功した宇垣工作)。しかし、これら宇垣による工作は、陸軍出先石原系をのぞく陸軍革新派の強い反対受けた宇垣結局興亜院問題きっかけ辞任した宇垣は石射に「事変解決を、自分任せといっておきながら、今に至って私の権限削ぐような近衛内閣留まり得ないのだ」と語ったという。石射は大臣輔弼不充分であった責を感じ東亜局長辞任した

※この「東亜局長時代」の解説は、「石射猪太郎」の解説の一部です。
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