イギリス統治下のビルマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/08 23:06 UTC 版)
- イギリス領ビルマ
-
British Burma
ဗြိတိသျှမြန်မာနိုင်ငံ -
← 
←
←
1824年 - 1942年
1945年 - 1948年
→
→
(国旗) (国章) -
国歌: God Save the King
国王陛下万歳
(1824年 - 1837年、1901年 - 1948年)
God Save the Queen
女王陛下万歳(1837年 - 1901年)
-
第二次世界大戦時のイギリス領ビルマ
深緑:日本占領時期のビルマ
銀色:イギリス領ビルマの残った地域
黄緑:タイに併合された地域 -
公用語 英語 言語 ビルマ語 宗教 仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教 首都 モールメン
(1826年 - 1852年)
ラングーン
(1853年 - 1942年、1945年 - 1948年)
シムラー
(1942年 - 1945年)通貨 ビルマ・ルピー
インド・ルピー
スターリング・ポンド現在
ミャンマー
イギリス領ビルマ(British rule in Burma)は、1824年から日本占領下の1942年から1945年を除く1948年まで続いた。三次にわたる英緬戦争によってイギリス領インド帝国の一部のビルマ州となり、その後インドから分離した単体の植民地となった後で、最終的に独立を果たした。イギリス統治下のビルマは英領ビルマ(British Burma)として知られている。
ビルマは時に「スコットランド植民地」と呼ばれることがある。スコットランド人がビルマの植民地化と支配に重要な役割を果たしたからである。その中でも最も著名な一人がサー・ジェームス・スコットである[要出典]。
歴史
| ミャンマーの歴史 |
|---|
| ピュー (–10世紀) |
| モン王国 (825?–1057) |
| パガン王朝 (849–1298) |
| ペグー(ハンターワディー)王朝 (1287–1539) |
| ピンヤ朝 (1313–1364) |
| アヴァ王朝 (1364–1555) |
| タウングー王朝 (1510–1752) |
| ペグー王朝 (1740–1757) |
| コンバウン王朝 (1752–1885) |
| イギリス統治下 (1824–1948) |
| 英緬戦争 (1824-1852) |
| ビルマ国 (1943–1945) |
| 現代 (1948–現在) |
| ビルマ連邦 (1948–1962) |
| ビルマ連邦社会主義共和国 (1962-1988) |
| (ビルマ式社会主義) |
| ミャンマー連邦 (1988–2010) |
| ミャンマー連邦共和国 (2010–現在) |
イギリスによる征服
1824年から1826年にかけての第一次英緬戦争により、アラカン(現ラカイン州)やテナセリム(現タニンダーリ地方域)などいくつかの地域が英領インド帝国に併合され、1834年までに両地域ともベンガル州知事の管轄下に置かれた[1]。
次に、1852年の第二次英緬戦争により下ビルマが併合され、併合された地域はアラカン、テナセリウム、ペグーの三管区に分けて弁務長官が支配する英領インドの「準州(minor province)[注釈 1]」となり、ラングーンに首都が置かれた[1]。
そして、1885年の第三次英緬戦争の後、上ビルマが併合され、ミャンマー全土が英領インドの支配下に置かれ、公用語も英語とされた。1897年には「ビルマ州(the province of Burma)」格上げされた。ビルマ州は英領インド最大の州だった[注釈 2][1][2][3]。
英領インドビルマ州
イギリスはミャンマーを、ビルマ族が住む平野部を「管区ビルマ」(英語: Ministerial Burma)と少数民族が多く住む山岳部を「辺境地域」(英語: Excluded areas)に分離し、前者を直接統治、後者を間接統治[注釈 3]した。これは「分割統治」と呼ばれ、のちの民族対立、内戦に繋がったとも言われるが、有力な異論もある[1]。
しかし、管区ビルマ内では従来の権力関係を廃して、ビルマ政庁を頂点に戴く一元的な支配構造の下に置いたので、社会に混乱が生じた。特にイギリスが、サンガの長であるタタナバインの地位を廃止してサンガへの支援を打ち切ったことは、多数派の仏教徒を怒らせ各地で反乱が発生した。結局、イギリスはインドから英領インド軍を呼び寄せ、反乱を鎮圧したが、この際の犠牲はイギリスとミャンマー人との間に大きな禍根を残した[4]。他にも「靴問題」や「シコー(ビルマ語: ရှိခိုး)問題」など、ミャンマー人の神経を逆撫でする問題もあった[注釈 4][5]。
イギリスは、ビルマ州を英領インドへの食料と燃料の供給地とみなし、石油、鉱物、木材などの資源を開発し、鉄道や港湾などのインフラも整備した。エーヤワディーデルタ地帯は稲作地帯として開発され、輸出用コメの一大生産地となった。また、英領インドの一州となったということで、大量のインド人(インド系ビルマ人)が移住してきて、1931年までにミャンマーのインド人人口は、総人口のおよそ7%にあたる100万人を超え[6]、上ビルマの2.5%・下ビルマの10.9%を占め、ラングーンの総人口約40万のうち、半数の約21万人がインド人となった[7]。
一方、植民地下で勃興した地主、公務員、弁護士、商工業者などの中産階級や学生を中心に反英植民地運動も高まった。1920年には、新設される予定のラングーン大学の入学条件と学費をめぐって、大学でストライキが起こり(第一次学生ストライキ)[注釈 5][8][9]、学生たちはシュエダゴン・パゴダの麓にキャンプを張った。またこの際、学生たちが全国の僧侶たちと交流を持ったことにより、Sangha Sammeggiという僧侶たちによる政治組織が次々と生まれ、同年、ビルマ仏教徒青年会(YMBA)中央委員会を母体としてビルマ人団体総評議会(GCBA)が設立された。彼らは市民不服従運動、納税拒否、外国製品ボイコットなどの活動を展開したが、独立までは求めておらず、イギリスの自治領(ドミニオン)[注釈 6]となることを目標としていた[10][11]。また、ウー・オッタマや、ウー・ウィサラなどの「僧侶政治家」も登場したが、2人とも獄死した。このように反植民地主義の高まりを感じ取ったイギリスは、1923年、ビルマ州に両頭制を導入し、ミャンマー人を部分的に政治参加させた。しかし、これへの対応をめぐり、GCBAは四分五裂に分裂した[12]。
独立運動と英領ビルマ
1929年に始まった世界恐慌の波はビルマ州にも押し寄せ[注釈 7]、1930年から1932年にかけて、元僧侶で元GCBAのメンバーだったサヤー・サンがエーヤワディーデルタ地帯で反乱を起こした。結局、反乱は鎮圧され、サヤー・サンは絞首刑に処せられたが、この際、サヤー・サンの弁護士を買って出たのは、バー・モウとビルマ連邦第2代大統領を務めたバー・ウである[13][14]。根本敬は、これを「植民地支配体制によって破壊された旧来の共同体の倫理的価値の復活と、それにもとづく理想の支配者を求める農民反乱」と評し、実際にはサヤー・サンだけではなく、さまざまな中間指導者が困窮する農民を率いて展開した反乱で、「下ビルマ農民大反乱」と呼ぶほうが正しいと述べている[15]。
いずれにせよ、これが僧侶政治家主導の反英植民地運動の終焉となり、この後は彼らにインスピレーションを受けた学生活動家が反英植民地運動、独立運動を担っていくことになった。1930年5月にはわれらビルマ人連盟(タキン党)が結成され、1930年ラングーン暴動を扇動[14]。1936年には、ラングーン大学学生組合(RUSU)の機関誌『オウェイ(Owei、「孔雀の鳴き声」の意)』に大学当局を批判した『悪魔の犬がうろつく』と題された記事を掲載したRUSU書記長アウンサンと、RUSU議長ウー・ヌというタキン党のメンバー2人が退学処分となったことをきっかけに、4か月に及ぶ学生ストライキが決行された(第二次学生ストライキ)。結局、2人の退学処分は取り消され、この事件をきっかけに全ビルマ学生組合連合(ABFSU)が結成された。ただし、この時点ではまだタキン党は英植民地体制にとって脅威ではなかった[16]。
1937年、1935年に制定されたビルマ統治法により、ビルマ州は英領インドから分離され「英領ビルマ」となり、選挙も実施され、アーチボルド・コックレイン総督によってバー・モウが初代首相に任命された。しかし、バー・モウの政権は少数連立政権であり、何度も内閣不信任案を提出され、非常に不安定だった。また、1938年頃には大規模な反インド暴動、タキン党が扇動したビルマ中部のチャウとイェーナンジャウンで油田労働者たちによるストライキ(1300年革命[注釈 8])、ヤンゴンで農業改革を要求する農民デモ、アウンチョー(Aung Kyaw)というヤンゴン大学の学生がイギリス騎馬警察に撲殺された学生デモ[注釈 9]、僧侶を含む14人が射殺され、19人が負傷したマンダレーのデモなどが頻発し、対応に苦慮した。そして1939年2月16日、ついに内閣不信任案が可決され、バー・モウは首相を辞任に追い込まれた[17]。
その後を継いだウー・プ連立内閣も閣内不一致でわずか1年7か月で倒れ、1940年9月今度はウー・ソオが首相に任命された。彼はビルマ防衛法を適用して、タキン党を弾圧した。しかし、訪問中のハワイで真珠湾攻撃を目撃したウー・ソオは、イギリスを裏切り、訪問先のリスボンで日本公使館と接触。これがイギリス当局に発覚し、首相を解任された。その後1942年1月にポートゥンが首相に任命されたが、4が月後に日本軍(緬甸方面軍)がミャンマーに侵攻してきて、イギリス軍とともにインドのシムラーに逃れた[18]。
ビルマ国
1942年8月1日、ビルマ国の独立が宣言され、バー・モウが国家代表(Naingandaw Adipadi)兼首相に就任した。また独立と同時に、ラジオ放送を通じてアメリカとイギリスに対して宣戦布告した。閣僚や枢密院のメンバーはほとんどが英領ビルマ政府に関わった親英エリートミャンマー人だったが、タキン党のアウンサン(国防大臣)とウー・ヌ(外務大臣)も閣僚に起用され、彼らにとって行政経験を積む貴重な機会となった[19]。
ビルマ国は憲法にあたる全64条からなるビルマ基本国家法を制定し、その中で「主権を有する完全な独立国家」とされたが、独立と同時に締結された「日本国緬甸国軍事秘密協定」により、約20万人の日本軍は引き続きミャンマーへの駐留が認められ、その行動の自由が保障され、軍隊(ビルマ国民軍)と警察に対する指揮権が認められるなど、独立とは名ばかりの日本の傀儡政権だった。しかし、それでもバー・モウは、日本に認められた「合法」的枠内に限定されていたとはいえ、ミャンマー語の公用化推進、行政区画の簡素化、国軍独自の軍法作成など精力的に改革に取り組んだ。また、日本軍の主権侵害には強く抗議し、必ずしも日本の言いなりではない側面もあった。バー・モウは1943年11月4日・5日に東京で開催された大東亜会議にも出席した[19]。
1944年3月から7月にかけて展開されたインパール作戦が失敗に終わると、日本の戦局は悪化の一途を辿り、1945年3月27日、アウンサン率いる反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が抗日蜂起を開始。バー・モウはその動きを察知していたが、日本軍には伝えず、また、曲がりなりにもミャンマーの独立を達成してくれた日本軍を裏切ることもなかった。しかし、日本軍はそのバー・モウを見捨て、4月23日、バー・モウは自ら中古バスをチャーターして、ラングーンからモーラミャインの南のムドン村まで逃げのびた。バーモウはしばらくそこで身を隠していたが、8月14日夜、日本のポツダム宣言受諾を知ると、最後の閣議を開いてビルマ国としても宣言を受諾する旨を決定し、ここにビルマ国はその短い歴史に幕を下ろした[19]。
独立
ミャンマーを奪還したイギリスは、1945年5月17日、『ビルマ白書』を発表、経済復興を最優先事項とし、そのためにビルマ総督による直接統治を3年間継続し、その後総選挙を実施して英領ビルマ時代の統治体制を復活させ、最終的にミャンマーをイギリス自治領にするものとした[20]。
しかし、完全独立を求めるアウンサン/AFPFLはこれを拒否。イギリスが設置した行政参事会への参加も拒否した。仕方なくイギリスは、ウー・ソオなど戦前英植民地体制に協力したミャンマー人政治家を行政参事会のメンバーに起用したが、ミャンマーの政界の主導権は、日本を武力で放逐したアウンサン/AFPFLに移っていたた[20]。
1946年8月、前任のレジナルド・ドーマン=スミスに代わってビルマ総督に就任したされ、ヒューバート・ランスは、アウンサン/AFPFLにより妥協的な態度を取り、新たに組織された定員9人の行政参事会にAFPFLのメンバーを6人起用し、アウンサンは国防大臣、外務大臣、議長代理を兼任、実質、アウンサン政権が成立したた[20]。
1947年1月27日、ロンドンでアウンサン=アトリー協定が結ばれ、「管区ビルマと辺境地域を統合した1年以内のビルマの独立」が確認された。その際、前提条件として「パンロン会議」「辺境地域調査委員会」「制憲議会選挙」「制憲議会」という4つの場が設定された。しかし、ロンドンに同行したウー・ソオとタキン・バセインは協定への署名を拒否し、1947年3月には行政参事会を辞任したた[20]。
同年2月には第二次パンロン会議を開催し、カチン州、シャン州、カレンニー州、チン特別区の設置とシャン州、カレンニー州の10年後の連符離脱権を認めることを条件に、全ミャンマーが1つの連邦国家として独立することについて各民族の代表の快諾を得たた[20]。
1947年4月に実施された制憲議会選挙ではAFPFLが182議席中171議席を獲得して大勝。しかし、同年7月19日、アウンサンは行政参事会の他の閣僚とともに暗殺された。犯人はウー・ソオだった。代わりにウー・ヌが首相に就任し、同年10月、ウー・ヌはイギリスに赴いてヌ・アトリー協定を締結し、1948年1月4日午前4時20分、ミャンマーは「ビルマ連邦」として独立を果たした。同日、ランス総督はミャンマーを離れ、第一次英緬戦争が始まった1824年から数えて、123年でミャンマーの英植民地時代は幕を下ろした[20]。
政治
行政区画
前述したように、植民地となったビルマは、ビルマ族が住む平野部が「管区ビルマ(英語: Ministerial Burma)」、少数民族が多く住む山岳部が「辺境地域」に分離され、ビルマ政庁が前者を直接統治し、英領ビルマ辺境局(Burma Frontier Service)が後者を間接統治した。前者には、さらに「管区→県→郡→市(町)→村(村落区)」という垂直ピラミッド型の行政区画が敷かれた[21][22]。
管区ビルマ
辺境地域
統治体制
植民地政府は、そのオフィスが入っていた建物の名を取って「ビルマ政庁」とも呼ばれる。
英領インドビルマ州
管区ビルマは、イギリス政府が指名し、イギリス国王が任命したインド提督[注釈 12]によって任命されたビルマ州知事が、全員がイギリス人から構成される150人のインド高等文官によって直接統治された。ほかに知事の任命制による立法参事会(植民地議会)があったが、定数わずか15人で、知事の諮問機関という位置づけだった。一方、辺境地域では藩王とか土侯と呼ばれた伝統的領主の統治権を認める間接統治が取られ、これは植民地支配が終わるまで変わらなかった[24]。
両頭制
1923年に両頭制が導入され、現地人を部分的に立法府と行政府に参与させることが図られた[25]。
新しい立法参事会は定員103人、そのうち80人は男子だけの制限選挙で選出され、さらに80人のうち58人はミャンマー人に割り当てられた[25]。
一方、知事に任命され、立法参事会に責任を負う2人のミャンマー人大臣と、インド総督に任命され、インド総督に責任を負う2人の大臣(1人はミャンマー人、1人はイギリス人)がおり、知事と合わせて5人で行政参事会を構成し、その下に各行政部局が置かれ、行政府として機能した[25]。
政府の機能は以下の3つに分類された[25]。
- ビルマ州知事が管轄する保留事項部門
- 立法参事会に責任を負う2人のミャンマー人大臣が管轄する移管事項部門(教育や農林水産)
- インド総督が管轄する中央事項部門(防衛、外交、貨幣政策)
英領ビルマ
1937年、ビルマ統治法にもとづいてビルマ州は英領インドから分離され「英領ビルマ」となり、インド総督に代わり、イギリス政府が指名し、イギリス国王が任命したビルマ総督が統治した。イギリス本国でも、建物は兼用、大臣も兼任だったが、インド省からビルマ省が分離された[26]。
立法府として上院と下院が設置され、両院とも制限付き法案提出権が認められた。法案は両院いずれから審議し始めてもよく、両院で可決された後、総督の了承を取り、効力を発するものとされた。また、両院の解散権は総督が有した[26]。
- 上院...任期7年、定員36人。半数を下院からの互選、残り半数は総督が任命。
- 下院...任期5年、定員132人。そのうち95人がミャンマー人に割り当てられた。男子の普通選挙が実現し、女性の制限付き選挙権も認められた。
首相は、下院で多数を占める政党の議員の中から総督が指名し、その首相が最大10人の大臣を指名して、総督の補佐機関としての内閣を組閣し、下院に責任を負う責任内閣として機能し、各行政部局に影響力を及ぼした。内閣の権限がまったく及ばない部門は外交と防衛、辺境地域に関する事項、貨幣政策に限られた[26]。
経済
伝統的なビルマ経済では、一つの再分配として、最重要ないくつかの商品の価格が国によって定められていた。 人口の大多数にとって、交易は自給自足農業ほど重要ではなかった。しかし、インドから中国への主要な交易路上に位置していたことから、この国は外国貿易の促進によって相当な量の金銭を得ていた。イギリス支配によって、ビルマ経済は世界市場に結びつけられ、強制的に植民地的な輸出経済の一部とされた[27]。
ビルマの併合は、経済成長の新時代をもたらした。社会の経済的性質も劇的に変化した。イギリス人はイラワジ川デルタ周辺の肥沃な土地を利用し始め、その地域の密集したマングローブ林を一掃した。特に1869年にスエズ運河が建設された後、ヨーロッパで需要が高かったコメが主な輸出品となった。コメの生産を増やすために、多くのビルマ人が北部の中心部からデルタ地帯に移住したことで、人口の中心が移動し、富と権力の基盤をも変えた[27]。
ビルマの農民に対して、英系銀行は不動産ローンを与えなかった。そこで彼らは耕作のための新しい土地を準備するため、チェティアと呼ばれるインド系金貸しから高金利で借り入れた。チェティアたちは、借り手が債務不履行に陥った場合はすぐに差し押さえを行った[注釈 13]。
何千何万というインド人労働者がビルマに移動して(インド系ビルマ人)、より低賃金で働く意志を示し、ビルマ人農民をすぐに追い出した。ブリタニカ百科事典は次のように記述している:
「ビルマの村人は、生業を失い社会的な居場所を失ったことで、時には些細な窃盗や強盗行為に手を出すこともあった。これらの行為を見たイギリス人は、彼らの怠惰で無規律な性質の故だと性急に決めつけた。ビルマ社会の機能不全のレベルは、殺人発生件数の劇的な増加によって明らかになった[29]。
経済の急速な成長とともに、イラワジ流域全体に鉄道が建設され、何百隻もの蒸気船が川を航行するようになり、ある程度の工業化が起きた。しかし、これらの輸送手段はすべてイギリス人が所有していた。貿易収支は英領ビルマに有利なものだったが、社会が根本的に変化したため、急速に成長する経済から利益を得ることができる人は多くなかった[27]。
ビルマの公務員は主に英国系ビルマ人とインド人によって占められた。ビルマ民族は軍からほぼ完全に除外された。軍は主にインド人、英国系ビルマ人、カレン族およびその他の少数民族グループらが勤務した。1887年にはイギリスによってビルマ総合病院がラングーンに設立された[30]国は繁栄したが、ビルマの人々はそれに見合う報酬をほとんど得られなかった(ジョージ・オーウェルは小説ビルマの日々で、当時のビルマの英国人をフィクションの形で詳述している)。あるイギリスの官吏による、1941年のビルマの人々の生活状況の記述は、ビルマの窮乏を記録している。
国外の地主の支配と、国外の金融業者の仕業で、国の資源は多くが輸出に振り向けられるようになった。農業従事者たちと国全体は次第に貧困に追い込まれていった……。農民は事実としてより貧しくなり、失業者は増加した……。ビルマ社会の崩壊は、そこに属する人々の心をも荒廃させ、貧困と失業の拡大は犯罪の大幅な増加を引き起こしている[31]。
教育
| 名前 | 生徒 | 教授言語[33] | 歴史教育 | 基礎理科 |
|---|---|---|---|---|
| 現地語学校 | ミャンマー人 | ミャンマー語 英語教育なし |
不明 | 不明 |
| 英語・現地語学校 | ミャンマー人 | ミャンマー語 英語教育あり |
追加必修教科 | なし |
| 英語学校 | 欧米人 | 英語 | 必修教科 | 追加必修教科 |
当初、英植民地政府は、ミャンマー人を軽んじて初歩的な教育で十分と考え、財政負担を軽減するため、全国にある僧院を利用して英語、計算、土地測量などの西洋式教育を導入しようとした。しかしこれは、僧侶の反対に遭って頓挫。そこで教会学校の建設を奨励したり、自ら設立した政府学校や僧院学校を地方政府の管轄下に移して財政負担の軽減を図った[34]。
基礎教育におけるミャンマーの学校は、僧院学校やホームスクーリングなどミャンマー人が通う現地語学校、外国人宣教師が設立した教会学校などの英語・現地語学校、植民地政府が東インド会社幹部、イギリス軍人、植民地政府高官の子弟のために設立した英語学校の3種類があった。英語・現地語学校と英語学校は一部を除き私立学校で、学費が高く、英語学校へのミャンマー人の入学は10%までと制限されていた。一方、現地語学校は門戸は広かったが、教育レベルは低く、中退率も高く、卒業後の進路も木材伐採、水運搬などの肉体労働がほとんどだった[34]。
やがて独立運動が盛り上がってくると、身分差別的な教育制度に対する不満も爆発。1920年12月5日にはラングーン大学で大規模なストが発生し、ミャンマー人のための学校を設立せよという訴えた。そして翌年から全国各地にミャンマー語を必修科目とする民族学校が設立され、その数は90校に上り、当時のミャンマーの全生徒数の6割に当たる約1万6千人の生徒が通った。ただ理科系科目がなかったので。入学試験の選択教科に数学と理系教科郡がラングーン大学の入試には不利だった[34]。
また英植民地政府は、少数のミャンマー人高級官僚育成のための政府高等学校の設立を始め、1874年にヤンゴンに開校した初の政府高等学校(ラングーン・カレッジ)は、1期生はわずか10人で、講義はすべて英語で行われたが、そのうち2人がコルカタ大学のセーダン試験(入学試験)に合格するという快挙を果たした。1940年までに政府高等学校の数は38校、補助金を支給した教会高等学校を含めれば合計140校に達した[34]。この政府高等学校は1904年にラングーン大学として単科大学となり、1920年にはバプティスト系の単科大学と合併して総合大学となった。さらにこのラングーン大学の傘下に、1925年にはマンダレー大学が、1930年にはヤンゴン教員訓練カレッジと医学部が、1938年には農業大学が設立された[35]。これらの大学では講義はすべて英語で行われ、ゆえに中退率が非常に高く、ラングーン大学の卒業率は25%ほどだったのだという[33]。
関連項目
- 英領ビルマ総督の一覧
- イラワジ舟艇会社
脚注
注釈
- ^ 英領インドの直轄領は提督(Governor-in-Council)または副提督(Lieutenant-Governor)が治める「主要州(Major provinces)」と、弁務長官(Chief Commissioner)が治める「準州(Minor province)」に分けられる。ただしこの区分は絶対的なものではなく、主要州でも弁務長官が治めるものもあった。
- ^ コンバウン朝が清朝の朝貢国だったことから、イギリスは清朝を刺激しないように朝貢を継続した。しかしこれは、清朝の増長を招くことになり、1886年に英中間で行われたビルマ会議で、清朝はイギリスによる上ビルマの占領を認め、イギリスは10年ごとに清朝への朝貢を続けることで合意した。
- ^ 藩王とか土侯と呼ばれる従来の権力者たちは、イギリスへの忠誠と引き換えに、引き続き領地の統治を任された。
- ^ 「靴問題」とは、ミャンマー人であれば必ず靴を脱いで上がるパゴダに、欧米人が靴を履いたまま上がる問題である。「シコー問題」とは、ミャンマー人が欧米人に対峙するときに、「シコー」という、手を合わせて頭を下げるひざまずく姿勢を強要された問題である。
- ^ 1919年のアムリットサル事件をきっかけに全インドで反英運動が巻き起こったが、この大学ストライキは、インド国民会議が件の反英運動にミャンマーを参加させる試みだった。このストライキが起きた12月5日は、のちに「国民の日」という祝日に指定された。ただし、ビルマ暦で祝われているので、西暦による日付は毎年変わる。
- ^ 当時、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランドの5か国にメンバーが限られていた。インドは1947年に加入し、1950年に共和制に移行した。
- ^ さらに1930年5月5日に起きた大地震で、エーヤワディーデルタ地帯の農村は壊滅的打撃を受けていた。
- ^ ビルマ暦の元年は西暦638年。
- ^ 最初の犠牲者である大学生アウン・チョー(Aung Kyaw)が亡くなった12月20日は、学生たちによってボー・アウン・チョウの日として追悼記念日になった。
- ^ 現在のカレンニー州の北部、緬泰国境沿いの地域。
- ^ 1875年6月21日にコンバウン朝のミンドン王とイギリス総督の間の結ばれた条約により、「カレンニー諸州」の独立が認められ、英領インド(ビルマ)には編入されなかった。
- ^ 常に国王の代理を兼ねたので「副王」とも呼ばれた。
- ^ 「英領期には年間14万人から42万人の範囲でインド系の人々が大量に移民としてビルマに流入した。それによって1931年までにラングーンの人口の過半数はインド系で占められるに至った。また、インド系の中には金融業を営むカースト集団チェティアがいて、彼らがビルマの農民に金を貸し、返済できない場合は担保の土地を取り上げ、不在地主化していった『事実』がある」[28]
出典
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- 根本敬『物語 ビルマの歴史 - 王朝時代から現代まで』(kindle)中央公論新社、2014年。 ISBN 978-4-12-102249-3。
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