インドからの分離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 07:27 UTC 版)
「イギリス統治下のビルマ」の記事における「インドからの分離」の解説
イギリスは1937年にイギリス領インドからビルマ州を分離し、ビルマ植民地には多くの権限をもった完全選挙制の議会を伴う政府を与えたが、一部のビルマ人はこれが、それ以上のインドの改革からビルマを排除するための策略ととらえた。初代植民地政府首相にはバー・モウが就いた。 1938年にビルマ中部のチャウ(英語版)とイェーナンジャウン(英語版)の油田から始まったストライキと抗議の波が広範囲に広がり、大きな民族主義運動に発展した。ラングーンでは抗議に参加した学生たちが、植民地政府の所在地であるビルマ政庁(英語版)を封鎖した。これに対してイギリス騎馬警察が棍棒でラングーン大学の学生を殺害した。 マンダレーでは、警察は仏僧が率いる抗議の群衆に銃撃を行い、17人が殺害された。この運動は、Htaung thoun ya byei ayeidawbon(ビルマ暦に由来する「1300年革命」の意)として知られるようになり、最初の犠牲者である大学生アウン・チョー(Aung Kyaw)が亡くなった12月20日は、学生たちによってボー・アウン・チョーの日(英語版)として追悼記念日になった。 バー・モウ政権は1939年に辞任に追い込まれた。その後、政変を主導したウー・ソオが、1940年に第3代植民地政府首相となった。しかしウー・ソオは、ビルマ独立を模索し、秘密裏に大日本帝国と接触していたことが発覚し、1942年に逮捕され、解任となる。
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