インドおよびオランダ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:33 UTC 版)
「アメリカ独立戦争」の記事における「インドおよびオランダ」の解説
北アメリカの戦争の余波はインドでの英仏間の争いにも飛び火し、1780年の第二次マイソール戦争という形になった。マイソール王国の支配者でフランスとの同盟の中心人物であったハイダル・アリーとその息子ティプー・スルターンがマドラスのイギリス政府に対抗した。 1782年、戦争を指揮していたハイダル・アリーは戦争のさなかに死亡したが、その後も戦争は続けられ、イギリスはマンガロールに包囲(マンガロール包囲戦)されるなどしたため、1784年に第二次マイソール戦争はマンガロール条約で休戦となった。これはインドの歴史でも重要な文書である。というのも、インドの民族にとって、イギリスに腰を低くして休戦を請わせるように仕向けた最後の機会だったからである。ウォーレン・ヘースティングスはこれを屈辱的な講和と呼び、国王と議会に「イギリス国民の信義と名誉が等しく侵害された」としてマドラス政府を罰するよう訴えた。 1780年イギリスは武装中立同盟に関わったネーデルラント連邦共和国に対し先手を打って攻撃した。武装中立同盟はヨーロッパの数カ国が中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資輸送の自由を宣言したものであったが、その結果はヨーロッパではイギリスが孤立する形になった。 イギリスはネーデルラントが公然とアメリカ反乱軍を援助するのを許したくはなかった。アメリカ独立戦争によって刺激されたオランダ急進派の扇動とオランダ政府のアメリカに対する友好的な態度は、イギリスの攻撃を呼ぶことになった。第四次英蘭戦争は1784年まで続き、オランダの商業経済に破壊的な影響をもたらした。
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