1938年ヤンゴンにおける反インド人暴動とは? わかりやすく解説

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1938年ヤンゴンにおける反インド人暴動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/12 23:16 UTC 版)

1938年ヤンゴンにおける反インド人暴動(1938ねんヤンゴンにおけるはんインドじんぼうどう)について詳述。

背景

英緬戦争を経てミャンマー全土がイギリスの植民地となると、インドからの移民が大量に流入し、特に輸出用のコメの一大生産地となったエーヤワディデルタ地帯には、多くの移民労働者が流入してきた[1]。1931年の国勢調査によれば、ミャンマーのインド系人口は総人口のおよそ7%にあたる101万7,825人で[2]ヤンゴンの総人口40万415人のうち、21万2,929人がインド系だった。インド系人口は上ビルマの2.5%・下ビルマの10.9%を占めた[3]。 インド系ビルマ人はさまざまな職業に従事したが、その中でもインド南東部のアーンドラ・プラデーシュ州およびテランガーナ州出身のテルグ人は、チェッティヤー英語版と呼ばれる金貸し業につき、多くのミャンマー人の偏見と怒りを買った。また、多くのインド人がミャンマー人女性と結婚したが、これも怒りの火に油を注いだ[4]。1939年にナガニ図書クラブ英語版ビルマ語版から出版された、テインペーの『インド人とビルマ人の争い』という本には、当時のミャンマー人の反インド人感情が赤裸々に綴られている[5]

キンマ店もインド人、揚げ物店もインド人、服地店もインド人、市場所有者もインド人、卸売商店もインド人、草履の鼻緒を付けるのもインド人、シャツ工場もインド人、炭酸ソーダ工場もインド人、石鹸工場もインド人、資金を貸すのもインド人、インド人、インド人、どこに行ってもインド人である…教養のあるビルマ人失業者は、インド人が占拠している仕事をみながら、あなたたちのせいで俺たちは仕事がないのだと敵意を抱いているのである。 — テインペー
インド人はビルマ人女性を軽い気持ちで娶っている。正妻になれないよう、ムスリムの法律で規定している。仏教徒女性が正妻となりたければ、イスラームに入信しなければならないというのもある。ゆえに、ビルマ人仏教徒たちは仏 教徒と異教徒が結婚するための法律を制定すべく議会に提案した。インド人が反対し騒いでいるので、その法律は未制定のままである。

このような事実を背景に、1930年にはヤンゴンで大規模な反インド人暴動(1930年ヤンゴンにおける反インド人暴動)が発生し、250人以上のインド系と少数のビルマ人が死亡し、2,500人以上のインド系ミャンマー人が負傷する惨事となった[6]。この暴動はインド系ミャンマー人の大規模国外脱出を引き起こし、一時期、その人口は大幅に減少したが、数年後、再び増加に転じた。下ビルマの13の主要な稲作地区のうち、1930年にはチェッティヤーは総面積の6%を占めるにすぎなかったが、1937年には25%にまで増加した[7]

経緯

1931年、モラウィ(Moulvi)と呼ばれるムスリムの指導者と仏教徒の男性との間で宗教論争が起き、仏教徒の男性、ゼラバディの男性[注釈 1]がそれぞれお互いを反駁する本を出版した。同年、ザガイン地方域ミェドゥー英語版で教師をしていた、マウンシュエピィ(Maung Shwe Hpi)という男性が、前ニ者の著作と自著『モラウィの教え』(The Teachings of a Moulvi)を合わせた三部作の『ムスリム修行者と仏教修行者間の論争集』(Moulvi-Yogi Awada Sadan)という本を出版した。『モラウィの教え』には、「ブッダの教えを信じるべきではない」「ビルマ人は野蛮人」といった攻撃的な言葉が含まれていたが、1,000部しか印刷されず、シュエボーミッチーナーマンダレーで配布されただけだったので、まったく話題にならず、問題とされなかった。1936年、一部好事家の要望で新たに2,500部印刷され、今度はヤンゴン、マンダレー、ザガインイェナンジャウン英語版モーラミャインシットウェなど広範囲に配布されたが、やはりこの時も話題にならなかった[8]。しかし、1938年7月14日、マウンティンボー(Maung Htin Baw)という人物が書いた『ナッの住処』(The Abode of Nats)という小説が出版され、ヤンゴンで1,350部売れたが、この本には『モラウィの教え』からの抜粋が付録として掲載され、次のようなコメントが添えられていた[9]

この種の本の出版を中止し、すでに配布されているこれらの本、すなわちわれわれの宗教、われわれの「パヤー(寺院)」、われわれの共同体、そして、われわれのパゴダを貶めるために出版された本に関して、なんらかの措置を講じるよう、切に強く要請する。

7月19日、大衆紙『サン』が、『ナッの住処』に注目して「なんらかの措置」を講じるよう主張し、レディ・ウー・ウイットゥーダ・サーラ(Ledi U Withokdasara)という高僧が、同じく『サン』に「仏教徒とミャンマーの利益を著しく害している」「仏教徒は緊急措置を取るよう」と主張する論評を掲載した。他の仏教徒系の新聞も批判記事を掲載し、逆にムスリム系の新聞はこれに反駁するなどして、やがてこれは宗教論争に発展していった[10]

7月26日、シュエダゴン・パゴダで僧侶と市民による1万人規模の大集会が開催された。集会では約12人が暴力的で罵詈雑言だらけの演説を行ったが、特にミャンマー人女性とムスリムの結婚に焦点が当てられていた。午後3時45分、集会が終わると、若い僧侶に率いられたグループが「カラー、殴れ、殴れ…火をつけろ、火をつけろ、燃やせ、燃やせ。ボイコット、ボイコット。カラーを娶ったミャンマーの女どもよ、ミャンマーには夫となる男が少ないからか!」と扇情的なシュプレヒコールを上げながら、ソアティー・バラ・バザール (Soortee Bara Bazaar)まで行進し、道端の屋台を荒らし、人力車を破壊し、建物に投石し、路面電車2台を停止させて破壊した。しかし、警察部隊が出動してくると、デモ隊は霧散し、8月1日までにヤンゴンは沈静化、死者は1人も出なかった[注釈 2][9][11]

しかし、暴動は他地域に波及、エーヤワディ地方域バゴー地方域マンダレー地方域、ザガイン地方域にまで広がり、暴動終結宣言が出された8月17日までに、181人の死者が出た。死者の内訳はムスリム139人、ヒンドゥー教徒25人、仏教徒17人だった[11]

影響

この時期、民族主義グループとして台頭していた「われらビルマ人連盟」(タキン党)だが、内紛中だっためにほとんど関与しなかった。また、当時、組織化を図っていたビルマ中部のチャウッ英語版イェナンジャウン英語版の油田労働者たちのストライキ参加者の約40%ほどがインド系ミャンマー人であり、タキン党内にもインド系ミャンマー人のメンバーが多くいたことも、彼らが暴動への関与を躊躇した理由とも言われている[12]

脚注

注釈

  1. ^ Zerabadis。ムスリムの男性と仏教徒のミャンマー人女性との間に生まれた子で、通常はムスリムとして育てられた。
  2. ^ 9月2日から9日までに、再び暴動が起きた。

出典

参考文献

関連項目




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