印緬関係とは? わかりやすく解説

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印緬関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/31 07:07 UTC 版)

印緬関係

インド

ミャンマー

印緬関係(いんめんかんけい)。インドミャンマーの外交関係について詳述する。

前史

ミャンマーとインドの交流は紀元前3世紀にまで遡る。その頃、インドのアショーカ王が2人の仏教使節をビルマに派遣し、ミャンマー人は仏教を受け入れ、仏教用語のパー​​リ語も取り入れた[1]。7世紀頃から、中国雲南省からミャンマーを通ってインドへ続く茶馬古道(西南シルクロード)[2]が栄え、11世紀のパガン王朝時代の碑文には、インド系住民を指すミャンマー語名である「カラー」の語句が見つかっている[3]。1228年、シャン族の系譜にあるアーホーム族が現在のインドのアッサム地方アーホーム王国を築き、1826年にコンバウン王朝に滅ぼされるまでこの地域を支配した。1429年から1785年まで現在のラカイン州で栄えたアラカン王国は、インド南部と海上貿易を行った[1]。1858年、ムガル帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世マンダレーに追放され、のちにヤンゴンに移され、その地で亡くなった[4]

英領インド(ビルマ)時代

英領インド(1909年)

インド人移民

ミャンマーとインドの本格的交流が始まったのは、英植民地時代である。三度の英緬戦争を経て、1886年、ミャンマーはイギリスに併合され、「英領インド帝国ビルマ州」となった。つまり、法的にはミャンマー人はインド人となったのである[5]

当初イギリスは、約3,000人のイギリス兵、約4,000人のセポイ、将校以外ほとんどがインド人の約1万人の憲兵、ほとんどがインド人[注釈 1]の約7,000人の文民警察官を擁して、約800万人のミャンマー国民を支配した。また、第二次英緬戦争に勝利した1852年以降から、陸路でアッサム、海路でチェンナイコルカタから多くの教育のあるインド人が、最初はヤンゴン、のちにミャンマー全土に移住し始めた。慣れ親しんだイギリス式法制度・行政制度・教育制度が敷かれ、英語が公用語で、しかもインドよりも賃金が高い「ビルマ州」は、彼らにとって魅力的なフロンティアだった[5]

マールワーリ人[注釈 2]は銀行業、テルグ人[注釈 3]チェッティヤー英語版(金貸し)、パー​​ルシータミル人グジャラート人は商業に携わり、さらに19世紀後半にエーヤワディーデルタ地帯が開発され、輸出用コメの一大生産地となると、ビハール人[注釈 4]ザミーンダールが当地で大規模農場を経営した。また、ビハール人とテルグ人の季節農業労働者、港湾労働者(クーリー)、タミル人とマドラス人[注釈 5]の人力車車夫など、肉体労働に従事するインド人も多数ミャンマーに移住した[注釈 6][5]。1931年までに、ミャンマーのインド人人口は総人口のおよそ7%にあたる100万人を超え[6]上ビルマの2.5%・下ビルマの10.9%を占め、ヤンゴンの総人口約40万のうち、半数の約21万人がインド人だった[7]。また、多くのインド人がミャンマー人女性と結婚し、ヒンドゥー教徒の男性との間に生まれた子は仏教徒に育てられたが、ムスリムの男性との間に生まれた子[注釈 7]はムスリムに育てられた[5]

反発と憧れ

1920年代のチェッティヤー

このように経済、治安機関、軍隊をインド人に牛耳られ、女性まで奪われたことにより、ミャンマー人の対インド人感情は大幅に悪化し、 インド人は「カラー」という蔑称で呼ばれ、当時、裕福なチェッティヤーの地主が貧しいミャンマー人農民を搾取する様子を描いたパンフレット、記事、漫画が頻繁に出版された。そして、1930年(1930年ラングーン暴動英語版)と1938年には大規模な反インド人暴動が発生し、多くのインド人が殺害された[5]。この点、歴史家のマイケル・アダス英語版は「チェッティヤーの経営はビルマ人の同業者に比しても総じて穏健で、経済不況と一向に減じないインドからの移民増大傾向に反感が昂じる中、ビルマ・ナショナリストが自らの勢力拡大に利用した側面が強い」と[8]、ミャンマー学者のG. E. ハーヴェイ英語版も「姿も習慣も異質なチェッティヤーは、ミャンマーの風刺画家の標的となり、公共の敵ナンバーワンとして描かれ、暴徒の暴力は意図的に彼らに向けられた。これは、人々の欠点や失敗を都合の良い犠牲者に押し付ける、いわば水路のようなものだった」と述べ、一寸疑義を呈している[9]

一方、当時多数派ビルマ族の学生・若者中心に高まっていた独立運動は、マルクス=レーニン主義アイルランドの独立運動イタリア統一運動と並んで、マハトマ・ガンディージャワハルラール・ネルーC.R.ダース英語版バール・ガンガーダル・ティラクなどのインドの独立運動のリーダーたちから大きな影響を受けていた。ガンディーは1902年、1915年、1929年と何度も訪緬して各地で演説会を催し、多くの聴衆を集めた[注釈 8][10]

1923年にビルマ州に両頭制が導入され、1937年にビルマ統治法英語版によりビルマ州は英領インドから分離され英領ビルマとなり、徐々にミャンマー人が政治に参画できるようになり、選挙も実施されたが、ほとんどの政治家はインド人富裕層から資金援助を受けていたので、インド人の経済活動や移民流入が規制されることはなかった[11]

1942年、日本軍ミャンマーに侵攻した際、当時ミャンマーにいた110万人のうち40万人以上のインド人がイギリス軍とともにアッサムに逃れたが、その途中で1万人から2万人もの人々が命を落としたと言われている[5]

議会制民主主義時代

1948年1月4日、ビルマ連邦として独立したミャンマーは、「非同盟・中立外交」を国是として掲げたが、内戦が一段落した1954年頃から積極中立外交を展開した。首相のウー・ヌインドの首相ジャワハルラール・ネルーと個人的に親しく、この関係が印緬関係を安定的なものにした。1949年にはインドは反乱に悩むミャンマー軍(以下、国軍)に小火器を提供、高官クラスの訪問は毎年のように行われ、ウー・ヌは1951年10月、1953年3月(インパール)、1957年12月、1960年2月、1960年11月、1961年8月、1962年1月(首相として最後の訪問)に訪印し、ネルーは1950年6月、1954年10月、1957年2月に訪緬している。1951年7月7日には両国間で平和友好条約[12]が締結され[13]、1953年3月、インド北東部で両国の国境に跨り独立を求めているナガ族ミゾ族、マニプル族の武装勢力を牽制するために、ウー・ヌとネルーは共同で国境を視察し、国境協定に署名した[注釈 9][14][15]

キンチーとネルー。

1960年にはアウンサンの未亡人ドー・キンチーが駐インド兼駐ネパール特命全権大使に任命され、キンチーは娘のアウンサンスーチーを伴ってニューデリーに赴任。この際、キンチー親娘はネルー一家に厚遇され、ネルーは、親娘のために、現在はインド国民会議の本部として利用されている、アクバル通り24番地の立派な屋敷を用意し、彼らが住んでいる間は「ビルマハウス」と呼ばれていた[16][17]。また、キンチー親娘は、ネルーの娘インディラ・ガンディー、孫のラジーヴ・ガンディーサンジャイ・ガンディー、インディラ・ガンディーの個人秘書を務め、のちにインドのミャンマー難民を擁護する弁護士となったナンディタ・ハクサー[18]らと親交を深めた[13]。この関係は、のちにインド首相となったラジーヴ・ガンディーがミャンマーの民主派を支援するきっかけとなり、スーチーはインドでの経験を元に、仏教の硬直性およびエリートの不在が、ミャンマーの発展を阻んだとするビルマとインド: 植民地主義下の知的生活のいくつかの様相[注釈 10]という論稿を著した[19]

また終戦時、ミャンマーには60万人から70万人のインド人が残っており、1945年には戦争で破壊されたインフラ再建のために15万人のインド人労働者が雇用されたが、翌1946年にはそのほとんどがインドへ送還された[20]。さらに、1947年憲法ではインド人は外国人とされ、輸出入業務や銀行業務から法的に排除されたため、イギリス軍撤退時にアッサムに逃れたインド人の大半はミャンマーに帰還しなかった[13]。1953年までにはヤンゴンにはわずか16万人のインド人しかおらず、インド政府は彼らにミャンマー国籍を取得するよう奨励したが、国籍取得に高額の費用がかかったため、1958年までにミャンマー国籍を取得したインド人はわずが7,994人に留まった[20]。ただ、ヤンゴンの専門職・商業分野では依然として、それなりのプレゼンスがあったとされる[21]

社会主義時代

1962年ビルマクーデターで成立した、ネ・ウィンビルマ連邦革命評議会が掲げた「ビルマ式社会主義」は一党独裁、経済の国有化、非同盟・中立外交を特徴としていた。そして、「経済の国有化」にもとづき次々と企業が国有化されていったが[22]、その際、特にインド系・中国系企業が狙い撃ちにされたとされる。それは「ビルマ人以外の者への輸入許可の停止」(1962年10月)、「ビルマ人以外の者への銀行融資禁止」(1963年3月)、「外国人医師の禁止」(1963年7月)という一連の措置にも現れていた。 1964年5月には50チャットと100チャット紙幣が廃止されたことで、彼らの不安はさらに高まった[23]

これらの措置により、在緬インド人はパニック状態に陥り、彼らはヤンゴンのインド、パキスタン、ネパール大使館に支援を求めた。また、地方に住む在緬インド人が支援を求め、また帰国するためにヤンゴンに殺到し、ヤンゴン空港とヤンゴン港は連日彼らで大混雑した[24]タンミンウーはその様子を以下のように描写している[21]

ニューデリーの命令により、彼らを「故郷」に送還するための特別な船舶と航空機がチャーターされた。一部の人々にとっては、それは故郷への帰還ではなく、難民としてのまったく新しい生活の始まりだった。彼らの多くはビルマ国外で暮らしたことがなく、何世代にもわたってビルマに住んでいた家系の出身者も少なくなかった。中にはビルマ語しか話せない人もいた。医師、弁護士、ジャーナリスト、ビジネスマン、教師、そして店主や一般労働者もいた。彼らは皆、着の身着のまま、一生(あるいは何世代にもわたって)の労働、家や財産、事業(国内最大級のものも含む)、さらには私有財産に対する補償さえも受けずに、一文無しで国を去った。 — タンミンウー

1964年には毎月約3,000人のインド人が空路と海路でミャンマーを出国、1962年から1965年までに約30万人の外国人がミャンマーから逃亡したが、その4分の3はインド人で、 1966年7月までに15万4,000人のインド人がインドに帰国。1976年3月までに公式の帰国者数は20万7,000人となった[24]。ミャンマーに残ったのは最貧困層およびミャンマーに土着した一部の人々だった[25]。その彼らも、1982年に制定された国籍法により「準国民」または「帰化国民」に分類され、ヤンゴン工科大学といった理工系の大学への進学が不可能になったり、公務員の昇進に差がつけられるといった不利益を被った[26]

インドに帰国した人々は、インドのさまざまな地域に移住した。コルカタ近郊のカマールハーティ英語版バラサット英語版には、ベンガル出身のヒンドゥー教徒が移住してきた。チェンナイとヴェールールのミャンマー・バザールにはタミル人が移住してきて、「ミャンマー・コロニー」と呼ばれている。タミル・ナードゥ州アーンドラ・プラデーシュ州の沿岸地域には、1964年から1968年にかけて約15万人のミャンマー系インド人が移住した。ムスリムの人々は東パキスタン(現バングラデシュ)と西パキスタン(現パキスタン)、特にカラチ郊外に多数移住した。他にもシンガポール、香港、マカオ、さらにはオーストラリアやアメリカ合衆国に渡り、そこで新しい事業を立ち上げた人々もいた[24]

インディラ・ガンディー首相

この騒動により印緬関係は大幅に悪化し、両国間の貿易はほぼゼロにまで落ち込んだが、1967年にインド首相に就任したインディラ・ガンディーは、ネ・ウィンとの良好な関係構築に努め、1969年3月にはインドの首相として初めて訪緬。ネ・ウィンも頻繁に訪印した。当時、両国共通の課題は、インド北東部の両国の国境に跨る少数民族武装勢力、そして中国の脅威だった。一方、インドは議会制民主主義党から離脱したウー・ヌに、1974年から1980年まで住処を提供し、一寸両国の緊張材料となった[24]

SLORC/SPDC時代

インドのミャンマー民主派支援

ラジーヴ・ガンディー首相

8888民主化運動の際、当時、ラジーヴ・ガンディーが首相を務めていたインドは、マハトマ・ガンディーとネルーの伝統的人道主義に則り、公然と反政府活動家を支援し、駐緬インド大使I. P. シン英語版[27]は、負傷した学生や若者たちを大使館に匿った。そして、インドと縁のあるスーチーが民主化運動のリーダーとして台頭すると、その姿勢はより強固なものとなった。まず、インドは国家法秩序回復評議会(SLORC)の弾圧から逃れてきた学生や若者たちを政治難民として受け入れ、マニプル州ナガランド州ミゾラム州に難民キャンプを設置した。ラジーヴ・ガンディーは、ミャンマーの民主派を支援するインドの政治家・知識人を結集してインド・ビルマ友好協会を設立し、のちに大統領となるコチェリル・ラーマン・ナラヤナが会長に就任。また当時、インド国営放送・オール・インディア・ラジオ英語版に勤務していたウー・ヌの娘・タンタンヌは、毎日90分番組でSLORCを批判し[28]、1990年11月10日、ヤンゴン大学の学生ソーミン(Soe Myint)とその友人が、SLORCの非道を世界に訴えるためにコルカタ行きのタイ航空便をハイジャックした際には[注釈 11]、インド当局は一旦彼らを逮捕したものの、たった3か月で釈放し、その後、ソーミンがニューデリーに定住して、『ミッジマ英語版』を創刊することを許可した。1992年7月には、民主派亡命政府ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)が、1994年には全ビルマ学生連盟英語版(ABSL)が、それぞれニューデリーに事務所を開設した。さらに、インドは1990年代初頭、カチン独立軍(KIA)とカレン民族同盟(KNU)を経済的に支援していたとされる。こうしたインドの動きに、SLORCは当然激怒し、印緬関係は最悪の状態に陥った[29]

ルック・イースト政策

しかし、インドは1991年に経済を自由化し、ASEAN諸国との関係を重視する「ルック・イースト政策」が採られると[注釈 12]、インドはSLORCとの関係再構築を模索し始めた。かねてよりインドはインド洋ベンガル湾を主要海域とみなしており、中国のベンガル湾への進出を脅威と見なしていた。また、インド北東部の反政府武装勢力を掃討するためにミャンマーの協力を必要としていた。ミャンマーとしても中国を牽制するために印緬関係を強化しようという思惑があった[注釈 13][30]。1993年3月、ルック・イースト政策の旗振り役の1人だったJ.N.ディキシット英語版が訪緬し、SLORC高官全員と会談。ミャンマーの内政に関与せず[注釈 14]、呼称も「ビルマ」から「ミャンマー」へ改める意思を表明し、対話を再開させた[31]。しかしその直後の同年5月、ネルー委員会(当時の委員長はK.R.ナラヤナン)が、当時自宅軟禁下だったスーチーにジャワハルラール・ネルー賞英語版[32]授与すると、SLORCは激怒。当時、国軍はインド軍と共同でインド北東部[注釈 15]アッサム統一解放戦線英語版(ULFA)掃討を目的とした「ゴールデン・バード作戦」を実施中だったが、受賞のニュースを聞きつけるや部隊を撤退させた。この措置は、インド政府には失態と記憶され、以後、表立ったミャンマー民主派支援は控えるようになった[33]。1998年2月、アラカン民族統一党(NUPA)とカレン民族解放軍(KNLA)が、インド政府の黙認の下、アンダマン諸島のインド領の島・ランドフォール島英語版で軍事拠点を設置しようとした際には、土壇場で両者を裏切り、メンバー6人を処刑した。2002年4月には『ミッジマ』創設者ソーミンが一時拘束された[34][31]

経済関係・軍事関係の緊密化

インド-ミャンマー-タイ三国間高速道路の一部・インド・ミャンマー友好道路。

ルック・イースト政策の下、インドはミャンマーをベンガル湾多分野技術経済協力イニシアチブ(BIMSTEC)(1997年)、BCIM経済回廊英語版(1999年)、メコン-ガンガ協力英語版(MGC)(2000年)などの地域内経済協力組織に引き入れ、1994年1月、両国は新たな国境貿易協定を締結して1970年3月に締結された二国間協定の範囲を拡大し、1995年4月、インドのマニプル州とミャンマーのザガイン地方域との間にモレ英語版タムビルマ語版国境検問所が開設された[35]。2001年にはタムとカレービルマ語版カレーワビルマ語版を結ぶ、全長160キロメートルのインド・ミャンマー友好道路がインド外務省の支援を受けて開通[36]。2002年には20年ぶりにマンダレーにインド領事館が開設され[37]、2004年3月にはタンシュエがデリーを訪問した。2009年には、ミゾラム州から陸路ミャンマーに入り、カラダン川からシットウェ港経由で海路コルカタに至るカラダン複合交通プロジェクトが合意された。ただ、主に道路インフラの不整備が理由で、両国の公式二国間貿易額は2010年代初頭において10億~15億米ドルと低水準にとどまった[38][39]

また、印緬両軍の関係の緊密化も図られ、2002年、中国海軍に先立つこと8年、インド海軍の艦隊がティラワ港に停泊することを許可され、その後もアンダマン海で何度か印緬合同海軍演習が実施された[40]。また、1995年、2006年にインド北東部で合同軍事作戦を実施し、2010年にはミャンマー当局がインド軍が国境を超えてミャンマー領土内に入ることを許可した[41]

さらに、長年のミャンマー人のインド人嫌悪を払拭するために[注釈 16]、インドは、2008年5月のサイクロン・ナルギスの被害に対する人道支援、同年6月のシュエダゴン・パゴダ修復のための20万ドルの寄付、2010年7月からのインド考古学調査局によるバガン古代遺跡のアーナンダ・パゴダの修復作業などを行っている[42]

テインセイン政権・NLD時代

2010年11月13日、およそ7年半ぶりに自宅軟禁から解放されたスーチーは、「インドが私たちの後ろにいてくれると信じたかった。マハトマ・ガンジーとジャワハルラール・ネルーの伝統を受け継いでくれると信じたかった」と述べた[43]。しかし、2011年にミャンマーが民政移管したことにより、「インドにとって『民主化か地政学的利益か」という綱渡りの時代は、一応終わった」[44]。民政移管は中国依存からの脱却だったので、インドに対する期待は高く、2010年7月にはタンシュエが訪印し、マンモハン・シン首相と会談したほか、ブッダガヤサールナートなど仏教の聖地を訪れ[45]、2011年11月にはテインセイン大統領、12月にはミンアウンフライン国軍総司令官とトゥラ・シュエマン人民代表院議長などの要人は相次いで訪印した[46]

ナレンドラ・モディ首相

2014年にインド首相に就いたナレンドラ・モディは、同年11月ネピドーで開催された東アジアサミットで、ルック・イーストを「通商(commerce)」「連結性(connectivity)」「能力構築支援(capacity building)」の3つのCからなるアクト・イースト英語版に進化させる旨を表明し[47]、バングラデシュとミャンマーを重点地域とするとした。そして、インド技術経済協力(ITEC)プログラムの枠で行ってきた従来の行政職と軍人の研修のほか、ヤンゴンにITスキル向上センターと英語訓練センター、マンダレーにIT学校、ネピドー近郊に先進農業研究教育センターを設立した[48][44]。ただ、その後も公式二国間貿易額は伸び悩んでいる[49][50]

軍事協力としては、2015年にインド北東部メーガーラヤ州で初の両軍合同軍事訓練が実施され[51]、同年6月と2017年12月、インド軍によるミャンマー領内での反政府武装勢力掃討作戦が行われ、2019年5月には、インド側の3つの武装勢力と、後述するロヒンギャ危機の発端となったアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)に対する3週間にわたる合同軍事作戦が実施された。また、2020年10月にインドはミャンマー海軍にキロ型潜水艦を提供し、ミャンマー海軍が初めて保有する潜水艦となった[52][44]

人道支援としては、2012年9月に、インドは、ラカイン州のムスリムと仏教徒との間のコミュニティ紛争で被害を受けた人々の救済のために20万ドルを寄付した。2019年からのコロナ禍の際には、インドは、2021年3月末までに170万回分のワクチンをミャンマーに寄付した。これはバングラデシュに次いで2番目に多い数だった[44]

2017年のロヒンギャ危機の際、インド政府は約4万人いたロヒンギャ難民を明白に不法移民と位置づけ、同年9月に訪緬したモディ首相とスーチー国家顧問との共同声明は、テロリスト(ARSA)を非難する一方で、国軍の掃討作戦による被害やロヒンギャ難民の流出については、なんら言及しなかった。同年12月5日の、ロヒンギャへの「組織的かつ大規模な人権侵害」を「強く非難」する国連決議にも、インドは日本などとともに棄権した。また、インドはロヒンギャのインド流出を食い止め、ラカイン州への帰還を促すべく、2017年9月にチッタゴンに食料50トンを空輸し、同年12月にはラカイン州開発プロジェクトに関する覚書に署名、ラカイン州復興のために5年間で2,500万ドルを支援することとされた[44]

SAC/SSPC時代

2021年ミャンマークーデターに対して、インドは「深い憂慮」と「法の支配と民主主義的プロセスの堅持」を表明したものの、クーデター直後の3月27日の国軍記念日のパレードには、駐緬武官を出席させた[注釈 17]。また、同年6月18日の国軍の暴力行為を非難する国連決議でも、2022年12月21日の国軍の「暴力行為即時停止」と「政治犯の釈放」を求める国連決議も棄権した[44][53]。モディ首相は2025年12月に予定されているミャンマーの総選挙を支援する意思を表明している[54]。元駐緬インド大使ゴータム・ムコパディア英語版によると、インドの政府高官は内戦の帰趨に無関心で、国軍の存在がミャンマーの平和に資すると考えているとのことである[55]

脚注

注釈

  1. ^ 若干のカレン族カチン族チン族も含まれていた。
  2. ^ マールワール出身者。
  3. ^ インド南東部のアーンドラ・プラデーシュ州およびテランガーナ州出身者。
  4. ^ ビハール州出身者。
  5. ^ チェンナイ出身者。
  6. ^ ベンガル地方からラカイン州に移住した人々は、ロヒンギャのルーツの1つとなった。
  7. ^ ゼラバディ(Zerabadis)と呼ばれた。
  8. ^ ミャンマーの独立運動家は、インドが独立しなければミャンマーも独立できないと考えていた。
  9. ^ ナガ族やミゾ族の反政府勢力はミャンマー経由で雲南省に入り、中国の支援を受けており、このような状況を解決するためにも国境確定は急務だった。両国の国境が正式に確定したのは1967年3月である。ただ、ナガ族はこれを認めていない。
  10. ^ 『自由 自ら綴った祖国愛の記録』に「植民地統治下のビルマとインドの知的活動」というタイトルで収録。英語タイトルは「 Burma and India Some Aspects of Intellectual Life under Colonialism」。
  11. ^ 彼らは石鹸と仏像を爆発物だと主張し、機長も220人の乗客も協力したのだという。
  12. ^ ラジーヴ・ガンディーは1989年に失脚し、1991年に暗殺された。
  13. ^ 当時の国軍ナンバー2・マウンエイが親印派で、ナンバー3のキンニュンが親中派と呼ばれていた。
  14. ^ そもそもインドは、中国と違って国連常任理事国ではないので、その影響力は限られている。
  15. ^ 他にこの地域で活動する武装勢力には、ナガランド民族社会主義評議会(NSCN)のカプラン派(NSCN-K)とイサク・ムイバ派(NSCN-IM)、統一マニプル解放戦線英語版(UNLF)、ボドランド民族民主戦線英語版(NDFB)、マニプル人民解放軍英語版(PLAM)などがある。
  16. ^ 現在でも、ミャンマーの人気テレビドラマ、映画、大衆文学においては、インド系ミャンマー人のイメージは嘲笑の対象になっており、「カラー」の蔑称も健在である。
  17. ^ 他の参加国は、中国、ロシア、パキスタン、バングラデシュ、タイ、ベトナム、ラオス。

出典

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参考文献

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