ビルマ式社会主義とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > ビルマ式社会主義の意味・解説 

ビルマしき‐しゃかいしゅぎ〔‐シヤクワイシユギ〕【ビルマ式社会主義】


ビルマ式社会主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/18 08:13 UTC 版)

ビルマ式社会主義(ビルマしきしゃかいしゅぎ)とは、正確には「社会主義へのビルマの道」ビルマ語: မြန်မာ့နည်းမြန်မာ့ဟန် ဆိုရှယ်လစ်စနစ်; 英語: Burmese Way to Socialism)と呼ばれ、1962年にミャンマーの実権が握ったビルマ連邦革命評議会が標榜した国家イデオロギーである。

背景

クーデターを起こして革命評議会が権力を握った直後の1968年3月4日、ネ・ウィンはチッフラインら陸軍心理作戦部のメンバーに、革命評議会の綱領の作成を命じた。その際、ネ・ウィンが強調したのは

  1. 経済の国有化
  2. 議会制民主主義の否定
  3. 一党制の導入

だった。ネ・ウィンは、農民、労働者、庶民のため、ひいては国家のために働くことが重要であり、共産主義は労働者を最優先するが、自分たちは国民の大多数を占める農民を最優先すると主張したのだという[1]。3月21日、『ビルマ社会主義へのアプローチ』と題された最初の草稿が完成し、3月23日にネ・ウィンの私邸で披露された。そしてネ・ウィンの意見を採り入れて手直しされ、『革命評議会の政策宣言:ビルマ式社会主義への道を歩もう』と改題されて、4月25日の革命評議会において全会一致で承認された。その後、ヤンゴン内の印刷所に回されたが、情報漏洩を防ぐために印刷工は帰宅を許されなかったのだという。そして4月29日・30日の最終会議で『ビルマ社会主義への道』とまた改題され、正式に承認された[2]

ただし、1947年5月の憲法草案審議予備会議で、アウンサンがミャンマーの経済政策について「林業、鉱業、電力、鉄道、航空、郵便、電信、電話、放送、外国貿易を国有化し、地主制度を廃止する。その他の生産手段は、できる限り共同組合所有とする」と述べ、1948年憲法では、第23条で「公共の利益のために私有財産を国有化できる」、第30条で「国家がすべての土地の最終所有者である」、第42条で「国家が私的利益を追求しない経済団体に物的支援を与える」など社会主義色が濃い規定があったことからもわかるとおり[3]、革命評議会の社会主義路線は決して唐突なものではなく、『ビルマ社会主義への道』の第14節にも「ビルマの議会制民主主義は、社会主義の目標を見失い、ついには社会主義経済制度と相反する点に達した」とする一文があり、前体制との継続性を示唆していた[4]

内容

『ビルマ社会主義への道』の冒頭では、「人間による人間に対する搾取の廃止」を謳い、次の基本理念では以下のような4つの原則が示されている。

  1. 綱領を実施または具体化する場合、ビルマ国の自然的環境、状況、事物に即して認識評価し、発展可能な方法を探索実行する。
  2. 自らを自己批判し、左右偏向にとらわれない方法を取る。
  3. 国民の基本的利益を見失わないように、情勢に応じた柔軟な態度を取り、発展をもたらしめることだけに専念する。
  4. 全人民の福祉のために、国家の別なく、取り入れるべき進歩的思想、理論、経験を批判的態度で評価しつつ、ビルマに適応した方法のみを取り入れる[5]

桐生稔は、これを「教条主義的ではなく柔軟な思想であり、マルクス・レーニン主義にもとづいたものではなく、英植民地時代に育まれた反資本的な考え方に、ビルマの民族主義上座部仏教というビルマの伝統的価値観が加わったもの」と評している[6]。また大野徹は「紛れもなく社会主義の概念を反映したものだが、一方で、社会主義実現の過程では左右両極橋に偏らないように留意するとあり、左翼思想の信奉者は唯物史観に固執し人民大衆に対して専制的になる傾向が強いと批判して、マルクス・レーニン主義を排斥していることから、ソ連、中国、北朝鮮、カンボジア、ベトナム、ラオスなど他の国々の社会主義とも一線を画す」と評している[7]

実践

軍事独裁(1974年以降はBSPP一党独裁)

革命評議会は『ビルマ社会主義への道』を忠実に実行する政党として、1962年7月4日、ビルマ社会主義計画党(BSPP)を設立し、ネウィンが議長となった。1964年3月28日には国家統一法が施行され、BSPP以外の政党・政治団体の活動が禁止された。しかし、BSPPが本格始動するのは1971年6月の第1回党大会からで、それまでは革命評議会が国家の実権を握っていた[8]。革命評議会のメンバーは、ネ・ウィンが隊長を務めていた第4ビルマ・ライフル部隊出身者が多く、「第4ビルマ・ライフル部隊政権」と呼ばれた[9]

経済の国有化

『ビルマ社会主義への道』にもとづき、1963年3月15日、新経済政策が発表され、(1)全経済活動の国有化(2)国家による米の独占的買い取り(3)一切の新規の民間投資の禁止の方針が示された。そして同年2月23日に銀行が国有化されたのを皮切りに、次々と企業が国有化されていき、街中の商店はすべて「人民商店」に鞍替えされた[10]。特にインド系・中国系の企業が狙い撃ちにされ、それは「ビルマ人以外の者への輸入許可の停止」(1962年10月)、「ビルマ人以外の者への銀行融資禁止」(1963年3月)、「外国人医師の禁止」(1963年7月)という一連の措置にも現れていた。結果、多くのインド人・中国人の生計が成り立たなくなり、彼らは「自主的に」ミャンマーを去った[11]。ただし政府が米の公定価格を低く設定したので、米の買い取りは上手くいかず、結局、農民に対する半強制的供出という形が慣行となった。しかし農民は、より利益の大きい闇市場に米を横流しするようになったので、米不足に陥って米の価格が上がり、輸出用の米も不足し政府の外貨準備金も不足するようになった[12]

非同盟中立外交

政府は外国からの干渉・影響をなるべく避けるために、非同盟中立外交政策を取った。シャン州に中国国民党軍泰緬孤軍)が陣取った際も、国連に救済を求め、中国共産党がビルマ共産党(CPB)を支援し始めた際も、粘り強く中国政府に支援停止を求めた。極端な国有化政策はインドやイギリスとの関係に緊張をもたらしたが、深刻な紛争には至らなかった。東欧諸国や旧ソ連は、ミャンマーが社会主義陣営に加わったと歓迎し、顧問の派遣やミャンマー人留学生の受け入れなどの交流があった。ただ政府は自由主義陣営ともバランスを取り、アメリカとの軍事援助協定は1970年ま続行し、1960年代を通じて日本から戦争賠償金という形で多額の援助を受け続け、その他西ドイツ、そ欧州諸国からも援助を受けた[13]。またビルマの伝統的価値観にそぐわないとされた外国文化は排斥され、1962年3月に出された一連の法律により、競馬、美人コンテスト、音楽、歌、ダンスのコンテストはすべて禁止され、シャン州ではギャンブルが禁止された[14]。さらに外国人の滞在時間は当初24時間に制限され、1969年に72時間に、1971年に7日間に延長された[15]

破綻

しかし、急激な社会構造の変化は経済の混乱をもたらした。(1)国家経済から中国人・インド人を追放し、官僚を追放した代わりに国軍将校がその任に就いたものの、経営・管理能力、企業家精神の欠如していたこと(2)外国投資・民間投資を禁止したことにより資本が不足したこと(3)CPBや少数民族武装勢力の反乱により経済活動が阻害されたことにより、かつてはASEAN随一の経済力を誇っていたミャンマー経済は停滞を余儀なくされた[16]

1962年から1974年までの平均年間経済成長率は2.8%、工業生産力の平均年間成長率は1.1%と低迷。かつてミャンマー最大の輸出品かつ外貨取得手段であった米の輸出は、戦前は年間300万トンだったのに対し、1964年は200万トン、1966年は62万トン、1967年は33万トンと下降の一途を辿り、70年代には農業改革により米の収穫量は増加したものの、輸出量は1985年は85万トン、1986年は73万トン、1987年は43万トンと相変わらず低迷したままだった。物不足と失業は慢性的となり、インフレも拡大した。1987年には国連から後発開発途上国(LLDC)に認定された[17]

そして1988年、国民の不満が爆発。全国で大規模なデモが発生、国軍がこれを武力で弾圧し、同年9月18日、国軍がクーデターを起こして国家秩序回復評議会(SLORC)が成立。『ビルマ社会主義への道』は放棄され、その26年の歴史に終止符を打った。

資料

チッフラインが1962年3月21日に提出した『ビルマ社会主義へのアプローチ』の草稿の要点

  1. 当初から私たちは、自由、民主主義、社会主義のために活動してきた。
  2. 国家は、国内の大多数を占める貧困層に繁栄をもたらす社会主義経済システムを確立することを目指す。
  3. しかし過去14年間、社会主義は成功していない。なぜなら、AFPFLと共産主義者がともに社会主義を誤って解釈したからだ。
  4. 共産主義者は教条主義的で教科書に縛られていた。彼らは左翼過激派の理論を採用し、ビルマのシナリオに合っているかどうかに関係なく、ロシアと中国のモデルを模倣した。そのため、彼らは失敗した。
  5. AFPFL も社会主義的アプローチに真剣に取り組まなかった。AFPFL 共産主義者はともに試行錯誤を繰り返してたが、失敗した(AFPFLは右翼逸脱者であり、共産主義者は左翼逸脱者だった。どちらも人々の支持を得られなかった)。
  6. これらの理由から、私たちは AFPFLと共産主義者の過ちから教訓を学び、正しい道に向かうつもりだ。私たちは、社会主義の原則において右翼または左翼逸脱を避けるよう注意する。われわれの社会主義は『ビルマ式社会主義への道』であるべきだ。
  7. 『ビルマ式社会主義への道』はビルマの自然環境、歴史と両立し、僧侶や一般人を含むビルマ国民の心理的、哲学的構成にも合致するべきである。それは彼らの考え方と一致し、彼らの批判的態度に耐えなければならない。
  8. 『ビルマ式社会主義』は実践可能で、教科書の教義から自由でなければならない。それは実践的でなければならず、貧しい人々に繁栄をもたらすために効果的な方法のみが用いられるべきだ。
  9. 『ビルマ式社会主義』の原則は日常生活の経験にもとづいていなければならない。
  10. 『ビルマ式社会主義』は実践経験にもとづいて理論分析を導き出し、それにしたがってテストすべきだ。つまり、それは現実の生活における実践から理論を定式化することであり、それらのテストは生活への適用によってのみ行われるべきである。このようにしてのみ、私たちは自然な理論を実践することができる。
  11. 私たちはビルマ人の生活条件に適合し、自由に実践できる社会主義の形を創り出さなければならない。
  12. 当面は、革命評議会が実行可能であり、同時に大多数が受け入れ可能なプログラムのみを実践する必要がある。詳細な理論を組み立てるには時間が必要だ。
  13. われわれの見解を述べるにあたり、議論の的になりかねないマルクス主義やレーニン主義などは避けるべきだ。その代わりに、マルクス主義のテキストや社会主義に関する論文から、ビルマ人にふさわしい抜粋を見つけ、それをビルマの思想、ビルマの考え、ビルマの言葉の観点から受け入れられる形にまとめるべきだ。
  14. どのような状況であっても、農民、貧しい労働者、上流階級などの基本的権利を見失わない限り、間違いを犯したとしても、それを正すことができる。
  15. つまり、われわれの実践的な成果が人々に繁栄と進歩をもたらすことができる限り、われわれは決して間違った方向に進むことはないと信じているのだ。この提案が受け入れられれば、われわれはこれらの考えにもとづいた理論的な論文を作成し、提出することを喜んで行う[18]

ネ・ウィンの意見

  • 社会主義はすべての人々のためのものだ。貧しい人々や労働者だけでなく、誰もが参加しなければならない。教育を受けた者も動員しなければならない。
  • 私たちはビジネスマンを受け入れる。それが共産主義との一番の違いだ。そのことを明確に書かなければならない。
  • 階級問題:私たちは、タキン・ソーの「すべての富裕層をリセットする」システムは好まない。富裕層は既存のレベルを維持しつつ、貧しい人々を豊かにする。
  • 民主主義:私たちは議会制民主主義を信用しない。選挙はビジネスマンの援助に依存し、選挙に勝てば、彼らの利益のために働かなければならない。また有権者の教育と知識が十分ではない。
  • 攻撃的な言葉を避けよ。自分たちだけが良い仕事ができるという態度は取るべきではない。「帝国主義」「共産主義」「資本主義」という言葉を頻繁に使うのは止めたほうが良い。
  • ビルマ語には「胎盤を金の器で洗った人」や「足の毛が焼けない人」[注釈 1]という言葉があるが、そのような言葉は消え失せるべきだ。肉体労働は卑しいという考えは消えなければならない。私は「水が深いところには蓮の花が高く咲く」という言葉を付け加えたい。
  • 階級にあまり差があってはならないが、優秀な人と鈍い人の間にはわずかな差があるだろう。知性、努力、勤勉、労働に応じて差があるだろう。責任のある立場の人と普通の荷物運び人の間には、当然ながら特権に差があるだろう。
  • 「貧しい階級」という言葉が使われているのが気に入らない。それは上流階級と下流階級が存在することを暗示している。私たちはそれらの階級が消え去ることを望んでいる。
  • 国際関係:私たちは搾取しない国やイデオロギーなら受け入れる。公正な交換なら受け入れるが、不公平な関係にある国は拒否する。
  • 商品生産は利益のためにするのではなく、消費財の生産能力を高めるためにやる。食料、衣服、住居は基本的なニーズだ。そこから徐々に生活水準を上げていき、文化を発展させる[19]

脚注

注釈

  1. ^ 楽して金を稼ぐことを尊ぶことわざ

出典

  1. ^ Taylor 2008, pp. 131-132.
  2. ^ Taylor 2008, pp. 143-147.
  3. ^ 佐久間 1984, pp. 59–64.
  4. ^ 佐久間 1984, p. 41.
  5. ^ 桐生 1979, pp. 53-54.
  6. ^ 桐生 1979, pp. 54-55.
  7. ^ 大野 1989, p. 71.
  8. ^ 中西 2009, pp. 99–110.
  9. ^ Whose Army?”. The Irrawadddy. 2025年3月3日閲覧。
  10. ^ 桐生 1979, pp. 55-61.
  11. ^ Taylor 2015, p. 311.
  12. ^ Taylor 2015, p. 364.
  13. ^ Taylor 2009, p. 356.
  14. ^ Taylor 2009, pp. 297-298.
  15. ^ Selth 2021, p. 30.
  16. ^ 桐生 1979, pp. 67-68.
  17. ^ 大野 1989, pp. 81-83.
  18. ^ Taylor 2008, p. 135.
  19. ^ Taylor 2008, pp. 136-143.

参考文献

関連項目

外部リンク


ビルマ式社会主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 02:49 UTC 版)

ネ・ウィン」の記事における「ビルマ式社会主義」の解説

こうした実績自信がついた1962年には、軍事クーデター決行しビルマ事実上軍事政権樹立したビルマクーデター (1962年)(英語版))。ビルマ独自の社会主義政策(ビルマ式社会主義)を採り、連邦革命評議会議長経て1974年から大統領になった7年後辞職した後もビルマ社会主義計画党 (BSPP) 議長務め国政君臨したこの期間のビルマは、外交では厳正な非同盟中立政策を採り、ビルマ共産党各地少数民族民兵組織との内戦において、諸外国介入を防ぐ事に成功する1965年以降ビルマ共産党めぐって緊張関係となった中華人民共和国とも1971年3月和解して経済援助を受けるようになり、ベトナム戦争など近隣諸国混乱にも巻き込まれずに済んだしかしながら1970年代にはクーデター計画発覚や、政権幹部追放により国内動揺閣僚企業トップ軍人優先して据えて対処した1978年には経済低迷したままといえども国内安定取り戻しネ・ウィンも2か月海外での長期療養行った1983年にはラングーン事件発生ビルマ国内でテロ行った北朝鮮との国交断絶し国家承認取り消しという厳し措置行い1985年アウンサン廟再建させた。しかし、経済政策では完全に失敗し世界最貧国転落した1988年国民の不満が爆発して民主化運動発生責任取って党議長を辞任したが、その時演説では「軍は国民銃口を向ける」と民主化勢力牽制した。辞任後隠然たる影響力持ち晩年それまで外交における中立姿勢にもかかわらずアメリカ批判していた。

※この「ビルマ式社会主義」の解説は、「ネ・ウィン」の解説の一部です。
「ビルマ式社会主義」を含む「ネ・ウィン」の記事については、「ネ・ウィン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ビルマ式社会主義」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ビルマ式社会主義」の関連用語

ビルマ式社会主義のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ビルマ式社会主義のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのビルマ式社会主義 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのネ・ウィン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS