第三次英緬戦争とは? わかりやすく解説

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第三次英緬戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/03 21:19 UTC 版)

第三次英緬戦争
英緬戦争

マンダレーに到着するイギリス軍(11月28日)
1885年11月14日 - 11月28日
場所 上ビルマ
結果 コンバウン朝ビルマの滅亡
衝突した勢力

イギリス帝国

ビルマ王国

第三次英緬戦争(だいさんじえいめんせんそう、英語: Third Anglo-Burmese Warビルマ語: တတိယအင်္ဂလိပ်–မြန်မာစစ်)は、コンバウン朝ビルマ大英帝国のあいだで1885年に行われた戦争である。この戦争の結果、コンバウン朝は消滅し、ビルマは全土がイギリス領インド帝国の一部に組み込まれた。

開戦

コンバウン朝ビルマ国王のミンドンが1878年に病死したのち、後を継いだのは当時21歳のティーボーであった。ティーボーを推挙したのはミンドン以来の改革を進めるべく自らの影響力を高めたいポーフライン英語版ら国務院(フルットー)であった。しかし、王妃のスパラヤッ英語版ら保守派はポーフラインを殺害したのちミンドンの王子48人中31人を処刑して改革を阻んだ。王国が弱体化するとシャン諸王国英語版の諸侯も離反し始め、イギリス領となっていた下ビルマではイギリスの企業家を中心にコンバウン朝侵攻が主張されはじめた[1]

ビルマはイギリスの牽制のためインドシナの植民地化を進めていたフランスに接近しはじめ、1885年にはフランスと条約を締結して領事の王都・マンダレー着任を認めた[2]。この条約を通して、マンダレー・トンキン間の道路敷設やトンキン経由の武器輸送などが取り決められたが、1879年以降領事をマンダレーから引き上げていたイギリスにとってこれは看過しがたい出来事であった[3]

1884年、ビルマはイギリス企業であるボンベイ・バーマ貿易会社英語版に対して230万ルピーの罰金を科していた。これは、ビルマ政府から木材伐採権を取得していた同社が伐採量を過少申告していたことを理由とする処置であった。イギリス領ビルマ弁務長官は調査・調停を申し出ていたものの、ビルマ政府は一企業の問題であるとしてこれを拒否していた[4]。1885年10月17日、イギリスはビルマに対し同問題の調停受け入れと、すべての外交交渉をイギリス領インド政調の同意を得て行うべきことを通告した[3]。イギリスは10月22日に最終通牒を行い、ティーボーは11月9日にこれを事実上拒絶した。イギリスはこれをもって、マンダレーの占領とティーボーの廃位を決定した[5]

戦闘

イギリス軍に占領されたミンフラ英語版

イギリスは当時上ビルマの地理的知識をほとんど有していなかったものの、イギリス領下ビルマのラングーンからマンダレーまではイラワジ運行会社英語版蒸気船を運行しており、水路に関する知識は十分にあった。ハリー・プレンダーガスト英語版率いる遠征隊は兵士9,034人、現地人従者2,810人、大砲67門と機関銃24丁から構成され、蒸気船ランチなど55隻からなる河川艦隊で輸送された[5]

11月14日(13日とも[3])までに遠征隊は国境沿いの駐屯地であるタイェッ英語版に集結し、同日に上ビルマへの侵攻がはじまった。不意を付かれたビルマ軍はほとんど応戦することもできず、26日にはイギリス軍は旧王都であるインワ英語版まで進軍した。ティーボー王は降伏し、兵士の武装を解除するも、28日にイギリス軍はそのままマンダレーまで兵を進め、国王を捕虜にした。マンダレーの財宝は略奪され、90万ルピー(6万ポンド)の収益となった[5]。伊東利勝は第三次英緬戦争について「戦闘らしきものはほとんどなかった」[3]根本敬は「戦闘らしい戦闘は起きなかったので、『戦争』という言い方は名目的なものだといえる」と論じている[6]

終戦

ティーボー王はインドのボンベイに追放され[3]、1886年1月1日をもってビルマ全土はイギリスに併合される。3月1日にビルマはイギリス領インド帝国の1州(5月1日までは準州)となった[7]。その後も反イギリス勢力は森林地帯にてゲリラ活動を続けたが、フレデリック・ロバーツ英語版により鎮圧された[5]

出典

  1. ^ 根本 2014, pp. 62–63.
  2. ^ 根本 2014, pp. 63–64.
  3. ^ a b c d e 石井 & 桜井 1999, p. 302.
  4. ^ 石井 & 桜井 1999, p. 301.
  5. ^ a b c d  この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Burmese Wars”. Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 847.
  6. ^ 根本 2014, p. 64.
  7. ^ 根本 2014, pp. 71–72.

参考文献

  • 石井米雄、桜井由躬雄 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年。 ISBN 4-634-41350-7 
  • 根本敬『物語 ビルマの歴史 - 王朝時代から現代まで』中央公論新社、2014年。 ISBN 978-4-12-102249-3 

第三次英緬戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 15:46 UTC 版)

英緬戦争」の記事における「第三次英緬戦争」の解説

en:Third Burmese War」を参照 1885年11月イギリスビルマの完全支配目指し三度目侵攻開始、翌1886年にはビルマティーボーイギリス降伏し上ビルマイギリス領併合されイギリス領インド組み込まれた。一部将兵イギリス占領反攻して戦闘続けたが、1890年に完全に鎮圧され戦争終結した(第三次英緬戦争、Third Burmese War)。この結果ビルマ王朝滅亡し1886年イギリス領インド併合されその1州となる。ティーボー夫妻イギリス領インドボンベイ流刑になり、その地で死亡。 そして首都マンダレーイギリス兵により略奪され王宮にあった玉座などの宝物のほとんどが持ち去られた(第二次世界大戦後大部分返却されたが、今なお一部イギリス所有している)。 そして1886年7月イギリス北京にて清朝と「ビルマチベットに関する条約」を締結した本条約では、ビルマについては清朝イギリスビルマ併合認めビルマへの宗主権主張しないこと、清朝ビルマ間の朝貢貿易引き続き行われること取り決めた同時に清朝側のビルマに絡むこれらの譲歩代わりに芝罘条約取り決められチベットへ使節派遣特権及び通商権イギリス放棄することを取り決めたビルマ1937年イギリス領インドから分離して自治領となったが、完全な自主独立回復したのは1948年1月4日イギリス連邦離脱してからである。ビルマ王国滅亡ビルマ人たちにとって屈辱的な事件であり、培われた反英感情その後ビルマ式社会主義21世紀の現在まで続く軍事政権の反西欧的な姿勢などに受け継がれている、

※この「第三次英緬戦争」の解説は、「英緬戦争」の解説の一部です。
「第三次英緬戦争」を含む「英緬戦争」の記事については、「英緬戦争」の概要を参照ください。

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