第一次ソールズベリー侯内閣のインド担当相
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「ランドルフ・チャーチル (1849-1895)」の記事における「第一次ソールズベリー侯内閣のインド担当相」の解説
時限立法であるアイルランド強圧法の期限が迫る1885年、グラッドストン内閣アイルランド担当相ジョージ・トレヴェリアン(英語版)は強圧法の延長を求めたが、これに対してランドルフはアイルランド国民党(英語版)党首チャールズ・スチュワート・パーネルに接近を図り、保守党が政権をとったら強圧法を廃止することを確約した。 これによってパーネルの支持を取り付けた保守党は、グラッドストン内閣を倒閣し、1885年6月に第一次ソールズベリー侯爵内閣を成立させた。ランドルフは同内閣にインド大臣として入閣した。在任期間はわずか数カ月であったが、その間にインド・ミッドランド鉄道(Indian Midland Railway)の創設に尽力し、また外交面ではビルマ王ティーボーを危険視し、インド総督ダファリン伯爵にビルマ侵攻を実施させ、同国を英領インド帝国に併合させた(第三次英緬戦争)。 しかし1885年11月の総選挙で保守党が敗れ、翌年1月から召集された議会で自由党とアイルランド国民党が連携した結果、内閣は早々に敗北して総辞職することとなった。
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