第一次ソロモン海戦と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/04 17:07 UTC 版)
「クインシー (CA-39)」の記事における「第一次ソロモン海戦と最期」の解説
「第一次ソロモン海戦」も参照 上陸した海兵隊部隊の護衛にあたる水上部隊の司令官ヴィクター・クラッチレー(英語版)少将(オーストラリア海軍)は、輸送船団を守るためルンガ沖に至る各水路に巡洋艦を複数配置し、各艦は正方形の運動を行って哨戒して、怪しい艦船を発見すれば通報の上反撃にでる態勢を取った。クインシーはヴィンセンス (USS Vincennes, CA-44) およびアストリア (USS Astoria, CA-34) と同じグループに属し、サボ島とフロリダ諸島間の海域にいた。 8月8日夜、三川軍一中将率いる第八艦隊の重巡洋艦と軽巡洋艦、駆逐艦がサボ島西方からガダルカナル島沖に入ってきた。三川中将の艦隊はサボ島西方を進み、シカゴ (USS Chicago, CA-29)、オーストラリア重巡洋艦キャンベラ (HMAS Canberra, D33) および駆逐艦パターソン (USS Patterson, DD-392)、バッグレイ (USS Bagley, DD-386) のグループに対して砲雷撃を行い、キャンベラは大破し、シカゴは艦首部に魚雷が1本命中して戦線離脱した。このグループは警報を発しなかったか、他のグループの受信状態が芳しくなかったか、ともかく異変を周囲に知らしめることはなかった。三川艦隊は些細なミスから2つのグループに分離し北上。どちらのグループもクインシーらがいるグループに迫りつつあった。 クインシーはヴィンセンスとともに三川艦隊からのサーチライトの照射を受け、状況が全くつかめていなかった両艦は、味方からの照射だと勘違いして味方識別信号を送るよう指示を出した。これに対し、三川艦隊は一斉砲撃で応答した。状況を理解しつつあったヴィンセンスが反撃の砲撃を行ったものの、2つのグループからの砲雷撃に挟み撃ちにされ破壊された。クインシーは鳥海からの砲撃を受け、鳥海の砲弾はクインシーの艦載機に命中。当時燃料を満載していた艦載機は炎上し、砲弾も誘爆を起こして三川艦隊の格好の標的となる。クインシーはヴィンセンスとともに北に逃げたが、やがて西側を進んでいた古鷹、天龍、夕張からも攻撃された。天龍と夕張は魚雷をクインシーとヴィンセンスに向けて発射した。クインシーは鳥海らのグループの間を砲撃しながら突き抜ける策に出始めたところだったが、魚雷が缶室に命中。断末魔を迎えたクインシーは捨て身の砲撃を行い、これは鳥海の海図室に命中した。やがてクインシーは左舷側に大きく傾いた後、横転して沈没していった。クインシーはこの戦闘で艦長を含む370名が戦死し、167名が負傷した。クインシーはアイアンボトム・サウンドとして知られた海域に沈んでいる。なお、作家丹羽文雄はこの当時、報道班員として鳥海に乗艦し、クインシー最後の反撃を目撃している。 クインシーは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。クインシーの名はボルチモア級重巡洋艦の一艦に引き継がれた(クインシー (CA-71))。
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