第一次スウェーデン十字軍前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 07:21 UTC 版)
「スウェーデン・ノヴゴロド戦争」の記事における「第一次スウェーデン十字軍前後」の解説
「en:First Swedish Crusade」も参照 この時期のスウェーデンとノヴゴロドの関係の確証に足る史料はわずかであるが、その史料により、スウェーデンとノヴゴロドの間の武力紛争が開始されていたことは明らかである。『ノヴゴロド第一年代記(ru)』の1142年の頁には、スウェーデン軍がバルト海域で3艘の商船からなるノヴゴロドの商隊を攻撃し、150人のノヴゴロド人が殺害されたことが記されている。また、3艘のシュネーカ(ru)(11 - 14世紀のスカンジナビアの兵船)が消失したことも併記されており、この出来事が、史料上における、スウェーデンとノヴゴロドの最初の武力衝突とみなされている。また1164年には、スウェーデンの大艦隊がラドガに迫ったが、ノヴゴロドから漕ぎつけたノヴゴロド公スヴャトスラフ、ポサードニク・ザハリーの船団に撃破され、43艘を失った。 一方、12世紀間には、ノヴゴロド人とそれに協力的なカレリア人とによって、スウェーデン領に対して海賊的襲撃を行う一団が組織されていた。伝説では、1191年にノヴゴロド人とカレリア人が、スウェーデンに対する海外遠征を行い、フィンランドのオーボを占領したというものがある。ただしスウェーデン、ノヴゴロドの年代記ともにこれに関する言及はない。 また、この時期の海賊的行為の一つとして、1187年にスウェーデンの都市Sigtuna(ru)が、何者かの略奪を受けている(ru)。伝説の中には、ノヴゴロドの聖ソフィア大聖堂に設置されているシグトゥーナの扉(ru)は、この遠征の戦利品としてノヴゴロドに運ばれたものであるというものがある。ただし、ノヴゴロドの史料上には、この襲撃に関する言及は一切見られず、いかに都市が破壊・略奪されたかという詳しい史料もまたない。スウェーデンの史料は、これを「異教徒の襲撃」とのみ記しており、14世紀初期の『エーリク年代記(ru)』のみが、この襲撃をカレリア人によるものと記している。いずれにせよ、この後の1188年に、スウェーデン人がスカンディナヴィア沿岸の、ドイツ人がゴットランド島のノヴゴロド人を攻撃しており、ノヴゴロド側は海上貿易の中断を強いられている。 また、スウェーデンの年代記には、12世紀末に、ヤールのJon(en)が9年に渡り、ノヴゴロドやイングリア沿岸との戦いを指揮していたという記述があるが、ルーシの史料からは同様の事象は確認できない。 最終的には、この種の(詳細は不確かであるものの、)軍事衝突を受けて、1195年にノヴゴロド、スウェーデン、ドイツ間において協定条約が結ばれた。すなわち、ノヴゴロド人、ドイツ人、ゴットランド島民間の相互の自由な来訪を保障するものである。
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