第一次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「第一次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐって」の解説
1848年革命のナショナリズムの高まりの影響で、1848年4月8日、デンマーク(当時絶対君主制国家だった)の同君連合下にあるシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国で両公国のドイツ連邦への吸収合併を求めるドイツ民族主義者とデンマーク軍の戦闘が勃発した。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世もドイツ・ナショナリズム支援のために介入を決定し、4月10日にもシュレースヴィヒ・ホルシュタインへ進軍してデンマーク軍を同地から追い払った(第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。 この問題をめぐってはプロイセンのバルト海進出を恐れているロシアが、デンマーク側で参戦する可能性が高かった。パーマストン卿はロシアの参戦を阻止すべく、国際会議で仲裁しようとした。ロシア外相カール・ロベルト・ネッセルローデはパーマストン卿に共同介入を提案したが、パーマストン卿はそれを拒否し、単独介入を目指した。4月末までにデンマーク・プロイセン両国から国際会議開催への合意を得たが、5月にはプロイセン軍がデンマーク領へ侵攻を開始し、これに激怒したロシアがフランスとともに参戦をちらつかせてプロイセンを脅迫し、6月にプロイセン軍はデンマーク領からの撤退を余儀なくされた。ロシアとスウェーデンの斡旋で8月にはデンマーク・プロイセンは一時休戦した。 ここでパーマストン卿は、恒久的平和実現のためとしてシュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題を話し合うロンドン会議を提唱した。孤立無援状態だったプロイセンはこれを支持し、またシュレースヴィヒで劣勢に立ったままのデンマークも支持した。こうして10月からパーマストン卿を議長とするロンドン会議が開催された。パーマストン卿は「シュレースヴィヒはデンマークに統合しつつドイツ語圏住民に独自の憲法制定権を含めた自治権を付与し、一方ホルシュタインはデンマーク王の同君連合のままドイツ連邦に加盟する」という案で会議をまとめようとしたが、デンマーク王フレデリク7世はこれを承諾しなかった。その頑なな態度にプロイセンやドイツ連邦もデンマークとの交渉を打ち切った。 1849年4月から戦闘が再開されたが、この頃オーストリアはデンマークを後押ししてプロイセンに背後から襲いかかろうと策動していた。プロイセンとドイツ・ナショナリズムに明らかに不利な情勢の中、パーマストン卿はデンマークを軍事的優位に立たせる以外にロンドン会議をまとめることができないと確信し、プロイセンとオーストリア双方に介入しないよう圧力をかけた。これにより両国とも不介入を決定し、以降、この戦争はシュレースヴィヒ・ホルシュタインの中のドイツ・ナショナリストとデンマークだけの戦いへと変化していく。これによりデンマーク側が軍事的に有利に立った。 そのうえでパーマストン卿は1849年9月に改めてロンドン会議を招集した。パーマストン卿の主導する粘り強い交渉の末、デンマークにもドイツ側にも一定の譲歩をさせることができた。シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両国とも引き続き同君連合のもとデンマーク王の統治下に置かれることやグリュックスブルク家のクリスチャンがフレデリク7世の後を継ぐこと、デンマーク自体に自由主義的な憲法を導入することなどが取り決められた。これらの合意は1850年8月にロンドン議定書という形で結実した。
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