第一次コンゴ戦争前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/02 01:26 UTC 版)
「バニャムレンゲ」の記事における「第一次コンゴ戦争前後」の解説
1996年秋から始まった第一次コンゴ戦争前後のバニャムレンゲ関係の動きは複雑で混乱している。この戦争以降、バニャムレンゲは戦闘・政府・軍に大きく関わる存在になった。この項では、第一次コンゴ戦争のキープレイヤーであるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)が結成された日までの動きを列挙するにとどめる。 7月第一次コンゴ戦争は1996年の10月に開始されたが、その数ヶ月前の7月初旬、ルワンダ副大統領(当時)ポール・カガメは複数のバニャムレンゲのベテランRPA(ルワンダ愛国戦線の軍事部門)を一般市民の服装をさせて南キヴ州へもぐりこませていた。FPRの部隊はイトムブウェ高原で、隠しておいた武器を回収し、旧ザイールへの侵攻の準備を整えた。ルワンダへ行き、RPAに入隊したり訓練を受けるようになるバニャムレンゲの若者が多数現れるようになり出した。彼らは、夜中にルシジ(Rusizi)川を渡ってブルンジへ入り、そこからガイドの手引きでルワンダ内の訓練キャンプに向かった。また、武器・弾薬を頭に乗せてイトムブウェ山に運ぶバニャムレンゲの部隊が見られるようになり、農民や商人は、山道で部隊に出くわすと道から離れた茂みの後ろに隠れねばならなくなり始めた。 8月旧ザイール当局は、ミリマ(Milima、人権関連のNGOでバニャムレンゲの中で活動していた)の活動を禁止し、主要なバニャムレンゲの活動家を逮捕した。 9月一方、8月31日から9月1日にかけての夜、この先遣隊をサポートするためにRPAの部隊がブルンジのシビトケ(Cibitoke)からザイールへ侵攻、夜明けになってキリンギエ(Kiyingye)村の近くのバナナの林に隠れていたところを、畑に行く途中の1人の女性に見つかり、ブシガ(Busiga)でザイール国軍と交戦状態になった。 9月9日にはウヴィラで反バニャムレンゲのデモが発生、ウヴィラは「死の町(ville morte)」だ、「外国人」は国外退去せよと叫んで、バニャムレンゲの家を襲撃、家財道具を奪った。デモは1週間続いた。その後、ザイール軍はバニャムレンゲの男たちを逮捕、一方で女性や子供は解放した。これは、ウヴィラの地区長シュウェカ・ムタバジ(Shweka Mutabazi)の指示によるものだと言われている。 バニャムレンゲの民兵とザイール軍の間での戦闘が伝えられるようになり、ザイール軍はウヴィラ周辺を「軍事地域」に指定、ゴマ・ブカヴ・シャバ・キンシャサでは軍が増強されたと報じられた。 9月13日ザイール政府は、バニャムレンゲを自国の軍に入隊させ、軍事訓練を施し、ザイールに侵入させて東部ザイールを不安定化させている、と主張してルワンダを非難、同時に、後衛用の基地を提供しているとしてブルンジも非難した。両国はともにこの非難を否定した。 バニャムレンゲはザイールから追放される、またはザイールから逃げ出して、ルワンダやブルンジへ流入し始めた。 10月10月6日、ウヴィラ地区にあるレメラ病院(Lemera hospital)で虐殺事件が起きた。この事件は、バニャムレンゲの民兵が引きおこした、AFDLとルワンダ軍によるもの、あるいはブルンジ軍によるもののようである、と様々に言われていて真相ははっきりしない。その目的は、この病院で処置されていたブルンジ人フツを抹殺するためであったという。34人の患者と看護婦3人が殺害された。レメラ病院は、保護と引き換えにザイール軍兵士やフツ民兵の治療を受け入れており、殺された患者の大半は兵隊だった。近くのカトリック教会では、ザイール軍兵士数人の死体が外に放置されており、教会の中では、平服のカトリック神父2人が射殺体となって見つかった。 同日の10月6日、南キヴ州の州副知事ルワシ・ルワバンジ(Lwasi Lwabanji)(州知事と書く文献もある)はラジオ演説を行い、「高地にあるいくつかの村では、バニャムレンゲが日常的に民間人を処刑しており、その民間人は自身を守るため既に、素手やナイフで防衛している。時には、バニャムレンゲから武器を取り上げている。」、「私は、高地に住む住民に対し、湖岸へ降りてくるように求める。我々は、高地にとどまる者は全て反乱者と見なすつもりである。」と述べた。この時、記者からの「バニャムレンゲが自分たちの家財道具をまとめて退去するまでにどの位の猶予を与えるのか」という質問に対して、ルワバンジは「一週間あれば十分だと思う。」「6日だ。」と述べた。ルワバンジ自身は後に、バニャムレンゲの移住は彼らの保護が目的であり、移住先もルワンダではなく、ザイール国内であったと主張している。しかし、バニャムレンゲの全てが演説をラジオで直接聞いたわけではなく、口伝えでその内容を知る者もおり、伝わる内容は次第に演説とは異なるものになっていった。数日のうちに、「州副知事は最後通告を行い、6日以内に全てのバニャムレンゲがルワンダへ国外退去しない場合攻撃を開始する」という内容に変わって伝わってしまった。 同日、南キヴ州議員団は、ラジオ放送を通じて「海外勢力や国連が、ルワンダ・ブルンジの拡張主義者の野望を満たすために、ザイールに対してなたを振り下ろしている、国際社会が陰謀を仕組んでいる」との非難声明を出したり、「ルワンダ人、ブルンジ人、ウガンダ人、ソマリア人、それ以外にもエチオピア人」が攻撃を仕掛けていると述べるなど、憎悪による緊張は極度に高まっていた。放送では、最後に「地域住民による自衛行為の支持」を求めて終わったが、これは「バニャムレンゲを殺せ」という意味であった。 翌7日、国連難民高等弁務官の緒方貞子は「非常に深刻な治安状況」であると発表した。 10月10日、モンガ・アウンドゥ将軍(Monga Aundu)は、南キヴ州は戦争状態にあると宣言し、PRAを敵であると認めた。 10月13日バニャムレンゲは、ウヴィラ近郊のルニンゴ(Runingo)難民キャンプ(ブルンジ人の難民キャンプ)を攻撃し、4人を殺害、9人を負傷させ、1万9千人がキャンプから逃げ出した。 10月17日、RPAとバニャムレンゲの部隊が、ウヴィラ近郊の複数のブルンジ人難民キャンプを襲撃、31人を殺害し、4千人がキャンプから追い出された。 10月18日から20日にかけて、ウヴィラで大規模な戦闘が発生した。これに関して、バニャムレンゲがウヴィラにある難民キャンプを襲撃したと報じられたが、実際には、ブルンジとルワンダの通常軍による攻撃が大部分であったらしい。 文献では、18日、南キヴ州のレメラで、AFDL結成の署名が、デオグラシアス・ブゲラ(Deogratias Bugera)、ローラン=デジレ・カビラ、アンセルメ・マサス・ニンダガ、アンドレ・キサセ・ンガンドゥの4人によって交わされたと考えられている、と書かれているが、ブゲラに直接インタヴューした別の文献によれば、ルワンダ政府による主導のもとで実際はキガリで行われた。このうち、ブゲラはツチ族だが北キヴ州出身、ニンダガはブカヴの出身だがムシ族(Mushi)とツチ族の混血で、AFDLのリーダーの中にバニャムレンゲはいなかったため、深刻なトラブルの種となった。後年になって、バニャムレンゲは、AFDLから疎外されているという感情を持つようになり、自分達はAFDLに利用されたのだと感じ出したからである。 10月25日、反乱軍はコンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)の結成を発表した。AFDLは、ウヴィラを占領した後も北上を続け、10月30日にはブカヴを、11月1日にはゴマを陥落させ、南キヴ州に限定された紛争から、東部コンゴにまで拡大された紛争に変化した。この後、更にキサンガニ、キンドゥまで兵を進め、最終的には翌年モブツ政権は崩壊した。
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