第一次グラッドストン内閣植民地相・外相
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「グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)」の記事における「第一次グラッドストン内閣植民地相・外相」の解説
1868年に自由党政権の第1次グラッドストン内閣(1868年-1874年)が成立。同内閣にグランヴィル卿は植民地大臣として入閣した。首相グラッドストンや陸軍大臣エドワード・カードウェルは植民地に駐留しているイギリス陸軍の兵力削減を目指したが、グランヴィル卿はアメリカとの緊張が続くカナダ・ノバスコシア州の駐留軍の兵力削減には慎重だった。 1870年7月に外相第4代クラレンドン伯爵が死去すると代わって外務大臣に就任した。同時期大陸では皇帝ナポレオン3世の指導するフランス帝国と宰相ビスマルクの指導するプロイセン王国の間で普仏戦争が勃発したが、グラッドストンもグランヴィル卿もこの戦争に中立の立場を取ることを決意し、グランヴィル卿はフランスとプロイセンに対してベルギーの中立を侵さないよう要請した。一方でグラッドストンはプロイセンによるアルザス=ロレーヌ併合を恐れており、同地の中立化を目指したが、グランヴィル卿はそうした介入にも反対した。 普仏戦争中の1870年10月、ロシア帝国外相アレクサンドル・ゴルチャコフがフランスの苦境に付け込み、クリミア戦争の講和条約としてロシアが結ばされたパリ条約(黒海の中立化を規定)の破棄を宣言した。これにはグラッドストンもグランヴィル卿も強く反発し、グランヴィル卿は会議外交による解決を目指した。しかし1870年12月からロンドン会議が開催されるもパリ条約の黒海中立化条項の破棄が認められるという結果に終わった。
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