第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 01:06 UTC 版)
「薔薇戦争」の記事における「第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日」の解説
第一次内乱初期(1455年) ロンドン レスター コヴェントリー カレー 第一次セント・オールバンズ ヨーク派 ヨーク公リチャード ソールズベリー伯リチャード・ネヴィルウォリック伯リチャード・ネヴィル ランカスター派 ヘンリー6世マーガレット・オブ・アンジュー サマセット公エドムンド・ボーフォート ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー –戦死または処刑。 詳細は「セント・オールバンズの戦い (1455年)」を参照 1455年5月、大評議会開催のためにレスターに向かっていたヘンリー6世、マーガレット王妃そしてサマセット公エドムンドの宮廷一行は、公正な審理を求めるべくロンドンに向けて南下していたヨーク公リチャードの軍勢と対峙することになった。5月22日、ロンドン北方のセント・オールバンズで両軍は衝突する。比較的小規模なこの第一次セント・オールバンズの戦いはこの内戦における最初の会戦となった。戦いはランカスター派の敗北に終わり、サマセット公は戦死し、ノーサンバランド伯をはじめとするランカスター派の主だった指導者たちは処刑された。会戦の後、ヨーク派は評議員や従者たちに見捨てられて陣幕で一人たたずんでいたヘンリー6世を見つけ、国王は明らかに精神異常に陥った状態だった(国王は首に軽い矢傷を負ってもいた)。 この勝利により、ヨーク公と彼の同盟者たちは再び影響力を取り戻した。10月、国王が執務不能なためにヨーク公が再び護国卿に任命され、議会は彼が国王に武器を向けたことについて不問に付した。ヘンリー6世が回復すると、1456年2月にヨーク公は護国卿を解任された。同年6月、ヘンリー6世はミッドランド地方に行幸をし、マーガレット王妃はランカスター家領や王太子領に近いコヴェントリーに宮廷を置かせた。その後、サマセット公ヘンリー・ボーフォート(戦死したサマセット公エドムンドの子)が国王の寵臣として台頭するようになった。一方、ヨーク公はアイルランド総督に復職しており、またウォリック伯はカレー総督となり、おのおのヨーク派の拠点となしていた。 首都と北イングランド(ネヴィル家とパーシー家の戦闘が再開していた)での無秩序が広まり、南部海岸ではフランス海軍による海賊行為が増加していたが、国王と王妃は自らの地位を保つために動かなかった。一方、ヨーク派のウォリック伯(後にキングメーカーの異名を受ける)は商人の守護者としてロンドンで人気を集めるようになっていた。 1458年春、カンタベリー大司教トマス・バウチャー(英語版)は両派の和解を調停しようとした。大評議会のために諸侯がロンドンに集められ、町は武装した従臣たちでいっぱいになった。大司教は第一次セント・オールバーンズの戦い以降の流血の私闘を解決するための複雑な和解策を話し合った。その後、3月25日の「聖母マリアの受胎告知の祝日」(Lady Day)に国王は「愛の日」(Love day)の教会行列をセント・ポール大聖堂に向かって挙行し、ランカスター派とヨーク派の貴族たちが手に手をとってこれに続いた。教会行列と会議が終わるとすぐに陰謀が再開した。 カレー総督のウォリック伯はハンザ同盟やスペインの船を襲撃して人気を博すが、本国政府にとっては不愉快な行動だった。彼は査問のためにロンドンに召還されたが、自分の生命を脅かそうとする企てがあると主張してカレーに戻った。ヨーク公、ソールズベリー伯そしてウォリック伯はコヴェントリーの大評議会に召集されたものの、彼らは自らの支持者から切り離された上で逮捕されると危惧しており、これを拒絶した。
※この「第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日」の解説は、「薔薇戦争」の解説の一部です。
「第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日」を含む「薔薇戦争」の記事については、「薔薇戦争」の概要を参照ください。
- 第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日のページへのリンク