軍事政権の成立
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1962年3月2日にビルマ国軍のネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし軍事政権を成立させた(ビルマのクーデター (1962年)(英語版))。ネ・ウィン将軍はビルマ社会主義計画党 (BSPP)を立ち上げた上で ビルマ式社会主義を掲げ、各少数民族への同化政策と自治権はく奪を行った。これらの政策に対してカレン族やシャン族のみならずカチン族やモン族など各少数民族はそれぞれ独立運動を起こし再び内戦が激化し、最終的に20以上もの独立勢力が乱立して軍事政権に対してゲリラ戦を行うようになった。1976年には少数民族11党派により民族民主戦線(NDF)が結成された。これらの独立勢力により辺境地域はビルマ中央の軍事政権の支配が及ばず、事実上の独立状態になった。一方都市部での拠点を失ったビルマ共産党はシャン州北東部のコーカン(果敢)族・ワ族居住地域に逃れ、次第に構成員がこれら少数民族と入れ替わって行った。1989年にクーデターにより以前からの幹部は追放されコーカン族・ワ族出身者中心で共産主義イデオロギーの薄いワ州連合軍として再編成された。さらにタイ及びラオスとの国境地帯では中国国民党残党軍が撤退した後を引き継ぐようにしてクン・サ率いるモン・タイ軍(英語版)などの麻薬組織が台頭し、民族独立を大義名分にしてアヘンの製造を行うようになり事実上の軍閥として一帯を統治下に置くようになった。このためタイ、ミャンマー、ラオスの3国の国境が交わる地域は黄金の三角地帯と呼ばれるようになった。またBSPP政権下でビルマ国軍は辺境部の反政府勢力への掃討作戦や少数民族の強制移住を行う一方、都市部の軍事支配を盤石にし、また銀行業や建設業などの主要なビジネスに手を広げビルマ最大の社会・商業組織となった。1988年の8888民主化運動でいったんビルマは民主化したが一カ月後に再度のクーデターで再び軍事政権である国家法秩序回復評議会(SLORC、1997年に国家平和発展評議会に改組)が成立。民主化運動家たちは国外に亡命するかビルマ民主同盟(DAB)及び全ビルマ学生民主戦線を結成して少数民族と合流、ゲリラ戦を展開した。1990年12月にはビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)が結成された。SLORC政権側も軍拡を進め、1988年には約19万人だったビルマ(1989年に国名をミャンマーに変更)国軍の兵力を1993年までに30万人以上にまでに増員し少数民族勢力への攻勢を開始、1988年から1992年にかけては1948年以来最大規模となる戦闘が行われた。これにより100万人以上の国外難民が発生した(ミャンマー難民)。もっとも各少数民族の独立勢力も一枚岩ではなくミャンマー国軍に対して各々が個別に戦闘と停戦を繰り返しており、分派や少数民族の独立派同士の抗争も起きている。
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