軍事政権との対峙
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「アウンサンスーチー」の記事における「軍事政権との対峙」の解説
1988年3月31日に母が危篤との知らせを受け、病気の母を看護するため4月2日にビルマに戻る。1987年9月の高額披露廃止令などをきっかけとして学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された3月以降に激化した。7月に1962年の軍事クーデターより独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。 戒厳令下では学生や市民らが大規模なデモを行った。アウンサンスーチーは8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向けて演説を行った。9月18日に国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権(国家法秩序回復評議会、SLORC。のちのSPDC―国家平和発展評議会)が誕生した。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。 アウンサンスーチーは9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指して、1988年の国民民主連盟(NLD)の結党に参加し、書記長に就任。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁され、NLD書記長を解任される。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したといわれる。 軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟が大勝した。しかし、軍政側は「民主化より国の安全を優先する」と権力の移譲を拒否した。この強硬な姿勢は国際的に激しい非難を招き、アウンサンスーチーは1990年10月12日にトロルフ・ラフト財団からトロルフ・ラフト人権賞(en:Thorolf Rafto Memorial Prize)を受賞。1991年7月10日にサハロフ賞受賞、10月14日にノーベル平和賞を受賞した。ノーベル賞賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。ただし自宅軟禁中のため授賞式に出席できず、受賞演説を行ったのは軍政が民主化に本腰を入れ始めてから21年後の2012年6月16日のことであった。 1995年7月10日に自宅軟禁から解放される。週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、軍政によって中止に追い込まれる。10月10日にNLD書記長に就任。NLDは11月に制憲国民会議のボイコットを決断し、軍政は対抗措置として同党側委員を除名した。会議は事実上休眠状態となる(2003年に再開)。 NLDは1996年5月、アウンサンスーチー釈放以後初の党大会を計画したが、軍政側は国会議員235人を拘束する弾圧策に出た。軍政はアウンサンスーチーにヤンゴン外への移動を禁止していた。アウンサンスーチー側は1996年と1998年にこれに抵抗したが、いずれも妨害された。NLDは1998年9月、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、アウンサンスーチーら議員10人で構成する国会代表者委員会(CRPP)を発足させる。 1999年3月、夫のマイケル・アリスが前立腺癌で死亡。ビルマ入国を求めたアリスの再三の要請を軍政は拒否した。再入国拒否の可能性があるアウンサンスーチーは出国できず、夫妻は再会することができなかった。
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