軍事政権の復帰
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「タイの歴史 (1973年 - )」の記事における「軍事政権の復帰」の解説
1976年後半までのタンマサート大学の学生を中心とする運動に、中産階級の穏健派は支持をしなかった。軍と右派政党はリベラル学生に対する宣伝戦を始め、学生活動家が「共産主義者」であるとレッテルを貼った。そして、ルークスア・チャーオバーンや赤い野牛(英語版)のような右翼準軍事組織により、それらの学生の多くが殺された。そして事件は、恩赦により8月にプラパート・チャルサティエン元陸軍総司令官、9月にタノーム元首相が王立の修道院 Wat Bovorn に入るためタイに戻った後の10月に起きた。 1973年以来の公民権運動がより活発になり、工場労働者と雇用主の間の緊張は激しくなった。社会主義や左翼思想はインテリ層や賃金労働者階級の間に浸透し始めた。政治的雰囲気はさらに緊張するようにさえなった。ナコーンパトム県では工場の雇用主に抗議を申し立てた労働者が木に吊るされて殺されているのが発見された。タイにおけるマッカーシズムのような赤狩りが広がり、共産主義の謀議をしているといえば、誰でも人を訴えることができた。 1976年9月からタノームらの帰国に抗議していたタマサート大学の学生は、10月4日に2つの非業の死への抗議として、絞首刑の寸劇を上演した。翌日、バンコック・ポストを含むいくつかの新聞は、寸劇の顔がワチラーロンコーン皇太子に似ているとして偽物の写真とともに不敬罪を示唆した。右派や超保守は頂点に達した学生の活動を抑圧するための激しい暴力を扇動した。10月6日、サガット・チャローユー(英語版)海軍大将率いる国家統治改革評議会は国境警備警察や警察を動員し、右翼組織とともにタマサート大学を包囲した。そこでは何百人もの学生が銃砲撃を受け、拷問を受けて殺された。(血の水曜日事件)。事件直後、虐殺への追及を和らげるための恩赦がなされた。 その夜、サガットは憲法の停止と民主党政権の終わりを宣言しクーデターを企てた。セーニー首相は退陣し、軍は超保守的な元裁判官ターニン・クライウィチエンを首相に就任させ、大学、メディアおよび官庁の全面的な粛清を行った。何千人もの学生、インテリ、および他の左派は、バンコクから逃れて北部と東北部の共産党の反政府勢力に合流し、安全地帯だったラオスの基地を中心に活動した。他の亡命した左派にはタマサート大学の黄培謙博士や権威ある経済学者、大学の学長も含まれていた。経済はターニンの政策よりも、冷え切った外国からの投資のために重大な困難に陥り、新体制は民主化への試みと同じように不安定だった。1977年10月、サガットは再びクーデターを企ててターニンを退陣させ、クリエンサック・チョマナン(英語版)司令官が首相に就任した。1978年、政府は「繁栄する国を造るために共に働く」ことを厭わないタイの共産主義者に住宅、家族との再会および安全を含む恩赦を申し出た。 タイ軍は同時に、ベトナム軍のカンボジア侵攻による状況に対処しなければならなかった。大量の難民が国境に押し寄せ、ベトナム側とポル・ポト派両軍が頻繁にタイ領に侵入し、国境沿いで衝突した。1979年の北京への訪問により、鄧小平に中国からタイの共産主義勢力への支援を終わらせる引き換えとして、タイ当局はカンボジアから西から逃れて侵入するポル・ポト派軍に安全な避難場所を与えることに同意せざるを得なかった。また、明らかになったクメール・ルージュによる犯罪の事実は、急激にタイの世論における共産主義への非難を強めた。クリエンサック首相の地位はすぐに維持できなくなり、オイルショックにより経済が悪化した1980年2月にやむを得ず辞任した。首相は清廉潔白な評判を伴った忠実な王党派、最高位のプレーム・ティンスーラーノン司令官によって引き継がれた。
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