軍事政権時代
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「マヌエル・コントレラス」の記事における「軍事政権時代」の解説
詳細は「軍事政権(スペイン語版)」を参照 1973年9月11日のクーデターの折、コントレラスはピノチェト将軍側に与してサンアントニオの制圧を指揮した。さらに決起の数日後には市内に7箇所の収容所を設置し、大勢の逮捕者を収容している。
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軍事政権時代(1973年-1985年)
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「ウルグアイの歴史」の記事における「軍事政権時代(1973年-1985年)」の解説
フアン・マリーア・ボルダベリー大統領はトゥパマロスの弾圧を軍部に頼り、左翼勢力を壊滅に追いやったが、このことは副作用として軍部の発言力の増大をもたらした。1973年6月にはボルダベリーと結んだ軍部のクーデターにより軍部が政治の実権を握り、官僚主義的権威主義体制とみなしうる軍事政権が成立した。軍部はボルタベリーに代わって直接政権を獲得することを望み、1976年にはボルタベリーは追放され、アパリシオ・メンデス(スペイン語版)が大統領に就任した。メンデス政権は新自由主義的な政策の下で経済を回復しようとし、経済政策はマクロ的には成功を収め、高度成長を達成したが、他方で国内の失業率は1977年の時点で11.8%にまで拡大した。さらに、1982年の時点で人口296万人のウルグアイで、軍と警察を合わせて10万人が治安組織の要員、市民社会の中から10万人が密告者という異常な警察国家体制の下で密告が奨励され、左翼系、あるいは全く政治活動に関係のない市民への弾圧が進んだ。こうした軍事政権の弾圧を嫌い、国民の約17%に相当する約50万人のウルグアイ人が国外に移住した。 1981年に軍部は軍の政治介入を合法化する憲法改正を実行しようとしたが、この体制は国民投票により否決された。このため1981年に大統領に就任したグレゴリオ・アルバーレス(スペイン語版)将軍は1985年の民政移管を発表し、1984年にコロラド党、軍部、拡大戦線によって締結された「海軍クラブ合意」に基づいて、ウルグアイは再び民主化の道を軍部主導で歩むことになった。
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