シェーファー逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:51 UTC 版)
「コロニア・ディグニダ」の記事における「シェーファー逃亡」の解説
1990年代前半の冷戦終結とアウグスト・ピノチェト率いる軍事政権時代の完全な終焉を受けて、1996年にはチリ軍と警察からの捜査を受け、弾薬や武器製造、拷問や通信傍受などのコロニアの秘密はほぼ廃棄されたと思われた。 さらにシェーファーは、1997年5月20日、エドゥアルド・フレイ政権下で少年に対する性的暴行の容疑で再び起訴を受ける。この起訴によれば、コミュニティ内の診療所と学校を利用していた26人の少年からシェーファーらによる暴行の証言を得たとされる。起訴を受けたシェーファーは姿を消し国外に逃亡、2004年に懲役20年の判決を受け欠席裁判で有罪判決が下された。 2005年3月10日、8年近く失踪していた創設者シェーファーは隣国のアルゼンチン、ブエノスアイレスからおよそ40km地点のラスアカシアスと呼ばれる地区で発見された。チリとアルゼンチン当局による2日間の交渉の末、シェーファーは裁判所に出頭するべくチリ側へと引き渡された。
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