ラングーン大学第二次学生ストライキ
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1936年に起きたラングーン大学第二次学生ストライキ(ラングーンだいがくだいにじがくせいストライキ)について詳述する。ちなみに、1920年に同じくラングーン大学で起きた学生ストライキは、「ラングーン大学第一次学生ストライキ」と呼ばれている。
背景
1923年から1937年までラングーン大学ユニバーシティ・カレッジ校長を務めたD.J.スロスは、その独断的行動により、学生から忌み嫌われていた。彼はなんの救済措置も与えずに学生を退学処分にしたり、優等生クラスに選ばれた学生たちの専攻を一方的に指定したり、大学の推薦を必要とする植民地高等文官(ICS)試験の受験を許可するにあたり、その学生を独断で選んでいた。また、ビルマ公務員試験(B.C.S.)においても、スロスが選考委員会の主要メンバーだった。つまり彼は、学生の生殺与奪権を握っていたのである[1]。
われらビルマ人連盟(タキン党)の創設者タキン・バタウン(Thakin Ba Thaung)は、1929年に英語科翻訳助手としてラングーン大学に採用されたが、授業中に民族主義を学生に吹き込もうとしたため、スロスと対立し、あっさり辞職した。スロスもこれに驚き、友人だった、ビルマ複合社会論で有名なJ.S.ファーニバルに、「いままで見てきた人間の中で唯一、仕事を犠牲にしてまで自分の良心を優先させた、たいした人物だ」と語ったのだという[2]。
また、スロス以外の大学教員と学生との間にも溝があった。例えば、教員は学生たちに「サー」呼ばせて距離を置いていたが、ある学生が出欠の確認の際に、「出席しています、先生」と答えず、単に「出席しています」と答えただけで退学処分となった。また、あとで取り消されたが、寮の副管理人と口論しただけで退学処分を受けた学生もいた[3]。さらに、一部大学教員が女子寮を頻繁に訪ねたり、パゴダのお祭りやサッカーの試合に誘うセクシャル・ハラスメントも問題になっていた[4]。
経緯
1936年1月30日、当時ラングーン大学の法科大学院の学生で、ラングーン大学学生組合(RUSU)議長だったウー・ヌが、RUSU主催の討論会で、スロスが学生の私事に不当に干渉し、その独断的行動によって多くの学生が劣等感を抱いていると批判した。数日後、新英新聞『ラングーン・ガゼット』が、大学生によるこのような侮辱的な発言は容認されるべきではなく、当局はヌに対して断固とした措置を取るべきだと主張し、これに呼応して、2月21日、スロスはヌを退学処分とした。ヌはスロスに直接手紙を書き、処分を甘んじて受け入れると述べ、大学を去った[5]。
2月24日、RUSUは緊急学生集会を開催し、試験をボイコットして無期限のストライキに入る決定を下し、約800人の学生が示威行動をするために、バスに乗ってシュエダゴン・パゴダに向かった。その後すぐ、今度はRUSU書記長だったアウンサンが、RUSUの機関紙『オウェイ』(Owei、「孔雀の鳴き声」)に掲載された、スロス批判とされる『悪魔の犬がうろつく(Hell Hound Turned Loose)』 というエッセイの筆者「ヤマミン(閻魔王)」の正体を隠し通したことにより、3年間の停学処分を受けた。この事実が明らかになったのは、ストライキが始まって1か月後で、この時は単に噂が流れただけだったが、それでも学生たちの怒りに火を点けた[5]。
2月26日、ストライキを運営するボイコット評議会が設立され、RUSUの役職そのままに、ウー・ヌが議長、M.A.ラシッド[6]が副議長、アウンサンが書記に就任した。同日、ストライキ参加者の食料、宿泊施設、健康の確保を目的とした、有力者によるボイコット監視委員会も設立されたが、彼らはストライキの運営に干渉しないことで同意した[7]。
2月27日、ボイコット評議会は、アウンサンの停学処分の取り消し、学費と寮費の値下げ、大学当局の組織・規律関係の委員会へのRUSU代表の出席、学長の処分権の制限などを求める9つの要求を発表。また、(1)ストライキ中に行動についてストライキ参加者を尋問したり、謝罪を求めたり、処罰したりしないこと、(2)ストライキ参加者がそれぞれの学校や大学に戻り、試験日程を変更することを許可すること、(3)高校卒業試験を大学入学試験と同等の代替試験とすることの3つの要求を追加し、パンフレットを作って学生や市民に配布した。さらにジャドソン・カレッジのストライキ参加者限定で、キリスト教の必修授業の廃止、年間5ルピーの清掃費の徴収停止、寮費の年間10ルピーの値上げの停止を含む5つの要求も発表した。総じて彼らの要求は、アウンサン1人の身分保障だけにとどまらず、大学教育における学生の正当な地位と学習環境を求めるものだった[8]。
ボイコット参加者はパゴダの境内で露営しながら、連日集会を開いて、自分たちの要求を訴えた。彼らは市民からの支持を得、パゴダを訪れた人々は集会場の前に広げられた大きな布の前に金を投げ込み、またストライキ参加者も街へ繰り出して、寄付金や、米、魚、野菜などの食料を募った。新聞・雑誌は学生たちに同情的な報道をし、立法参事会議員の中からも学生を支持する者が現れ、タキン党も彼らを全面支援した。地方の中学校や高校にもストライキが広がっていった。それでも大学当局は試験を実施しようとしたが、試験当日、約600人のストライキ学生がキャンパスに戻って教室を封鎖したため、試験は無期限延長となった[9]。
しかし、ストライキが長引くにつれ、資金や食料の確保、士気の維持が困難となり、5月11日、ウー・ヌはストライキの中止を決定した。それに先立つ5月1日、当時立法参事会議員だったウー・ソオの発案で7人の議員から構成される大学ストライキ調査委員会が設置され、1年後に答申をまとめた。この答申は、アウンサンの停学処分取り消し、奨学金制度の充実、女子学生に対するセクハラ疑惑があった大学教員の処分、学生全員へRUSUへの入会義務付け、大学による学生会費の一律徴収、学長の学生処分権のうち退学処分については大学教授会の同意を必須とすることなどを提言し、ほとんどが実施された。同年、スロスは任期満了に伴いイギリスに帰国した[10]。
ちなみにストライキに参加した学生はユニバーシティ・カレッジの全学生1437人のうち730人で約51%、カレン族、アングロ・バーミーズなど非ビルマ族学生が過半数を占めていたシャドソン・カレッジの全学生327人のうち70人で約21%、全体でスト参加者は約800人、参加率45%だった。また女性学生全255人のうち45人、約18%がストライキに参加した[11]。
影響
このストライキをきっかけに、1936年5月9日、全ビルマ学生連合(ABSU、のちに全ビルマ学生組合連合《ABFSU》)が結成され、RUSU副議長M.A.ラシッドが初代議長に就任した。また、ストライキを支援したタキン党にはラングーン大学の学生・卒業生の入党が増加し、ストライキで有名人となったアウンサンとウー・ヌも1938年10月に入党し、それぞれタキン・アウンサン、タキン・ヌとなった。また、1920年のラングーン大学第一次学生ストライキの際に設立され、閉鎖された民族大学が再び開校されたが、やはり1920年の時と同様、資金難を理由に翌1937年に早くも閉鎖された[12]。
脚注
注釈
出典
- ^ Aye Kyaw 1993, p. 67.
- ^ 根本 1996, p. 70.
- ^ Aye Kyaw 1993, p. 69.
- ^ 根本 1996, p. 74.
- ^ a b Aye Kyaw 1993, p. 68.
- ^ “U M. A. Raschid | PDF | Myanmar | Government” (英語). Scribd. 2025年11月12日閲覧。
- ^ Aye Kyaw 1993, p. 72.
- ^ Aye Kyaw 1993, p. 73.
- ^ Aye Kyaw 1993, pp. 72–73.
- ^ 根本 1996, p. 75.
- ^ 根本 1996, pp. 73–74.
- ^ Aye Kyaw 1993, pp. 74–77.
参考文献
- 根本, 敬『アウン・サン―封印された独立ビルマの夢』岩波書店、1996年。ISBN 978-4000048682。
- Aye Kyaw (1993). The Voice of Young Burma. Cornell University Press, Southeast Asia Program Publications at Cornell University
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