ラングーン大学第一次学生ストライキとは? わかりやすく解説

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ラングーン大学第一次学生ストライキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/12 02:47 UTC 版)

1920年に起きたラングーン大学第一次学生ストライキ(ラングーンだいがくだいいちじがくせいストライキ)について詳述する。ちなみに、1936年の学生ストライキを「ラングーン大学第二次学生ストライキ」と呼ぶ。

背景

ヤンゴン大学(ラングーン大学)

1886年の第三次英緬戦争に敗れ、ミャンマーが完全にイギリスの植民地になった時点で、ミャンマーには、1878年に設立されたラングーン・カレッジ[1]と1875年に設立されたシャドソン・カレッジの2つのカレッジしかなく、通える生徒は特権階級に限られ、女性にも門戸が開かれていなかった[2]

しかし、完全に英領インドに統合され、ビルマ州となったことで、植民地行政を担う人材育成が急務となった。しかし、第一次世界大戦による中断もあって話は遅々として進まず、1920年になってようやく2つのカレッジが統合されて、ラングーン大学(現ヤンゴン大学)が設立され、同年12月7日開学予定とされた[2]。しかし、入学定員が著しく少数に限定されていたこと、全寮制を採用したこと、学費が高額だったこと、カリキュラムが植民地政府官僚養成のための人文・社会科学系科目に偏り、科学技術系科目がなかったことから、ミャンマー人学生たちは不満を募らせた[注釈 1][3]

経緯

1920年11月末、まずバプティスト系ミッションスクールでストライキが発生し、12月3日、シュエダゴン・パゴダに12人の学生が集まり、大学ストライキの決議を採択した。大学が開学する7日にストライキを実行する予定だったが、事前に情報が漏れ、5日に実行することになり、ストライキ参加者はバハン郡区にあるウー・アリヤ(U Ariya)僧院に集まった。僧院の門前では警察官が彼らを監視していたが、暴力沙汰は生じなかった。ラングーン・カレッジ学長マシュー・ハンターや大学教師が入れ替わり立ち替わり僧院を訪れ、ストライキを止めるよう学生たちを説得したが、彼らは翻意しなかった。ストライキに反対していたインド系ビルマ人の学生たちも彼らの説得を試みたが失敗した[注釈 2]。学生たちは人々の支持を獲得し、僧院にはお金や食料品、日用品が届けられ、『ザ・サン』、『ニュー・ビルマ』、『ライト・オブ・ビルマ』などの新聞・雑誌も彼らに好意的な記事を掲載した。12月中旬に訪緬した労働党下院議員ジョサイア・ウェッジウッド英語版大佐からも激励を受け、インド国民会議ミャンマー支部も彼らを支持した[4]

12月8日、ストライキ学生たちは国民に向けた公開書簡を発表した[4]

われわれ、ラングーン・カレッジとジャドソン・カレッジの学生は、まだ誰もその結末を予見できない闘争に突入した。しかし、われわれはわれわれの大義の正しさを固く信じている。われわれは、政府が国民を鎖に繋ぎ止めるために作った道具に過ぎない大学法を、粉砕するつもりだ。われわれは、この局面において、ビルマ国民の心からの協力を得て、ヤング・ビルマの誇り高き不屈の闘い以外に、この国を救う道はないと信じている。

大学当局は退学をちらつかせて対抗し、期限の1921年1月5日までに、ラングーン・カレッジの全学生699人のうち270人、ジャドソン・カレッジの全学生129人のうち74人が復学した。残ったメンバーは、1921年1月21日、ミャンマー語、仏教、歴史教育を重視する民族学校・民族大学の設立を要求して、シュエダゴン・パゴダで集会を開き、多額の寄付を集めた。2月5日、インド副総督レジナルド・グッドラック卿英語版が、ある晩餐会で、「ミャンマー人はあまりにも後進的なので、改善された大学は彼らにとって先進的すぎる。ストライキ参加者とその支持者たちが若い学生たちを幻惑させている」と非難し、ストライキ参加者たちを激怒させた[4]

しかし、1921年4月10日に開催された全ビルマ高官ストライキ会議で、民族学校の設立が認められ、ストライキの目的がある程度達成されると、徐々にストライキ参加者は減っていき、ストライキは6か月で終息していった。ストライキ参加者の中には民族学校の教師になったり、大学に復学した者もいた。最後までストライキを続けた者の中には、アウンサンの行政参事会で閣僚となり、アウンサンとともに暗殺されたタキン・ミャ英語版ウー・ヌ内閣で閣僚となったコー・トゥンペーがいたた[4]

政府発表によると、ラングーン・カレッジとジャドソン・カレッジの全学生856人のうち509人がストライキに参加した。さらにストライキは全国に拡大し、公立学校39校のうち27校がストライキに参加、公立学校の生徒7,290人のうち4,224人がストライキに参加した。また、現地語学校57校のうち7校が民族学校に衣替えし、現地語学校の生徒13,224人のうち6,116人がストライキに参加した。最終的に、公立学校と現地語学校の生徒36,049人のうち11,967人がストライキに参加したのだという[4]

影響

民族学校・民族大学の設立

1920年ストライキを機に、翌年から全国各地に民族学校が設立され、その数は90校、当時のミャンマーの全生徒数の6割に当たる約1万6千人の生徒が通うようになった。民族学校の教育課程は、ミャンマー語が主要必修教科、高校では地理と歴史の両方が主要必修科目とされた。ただ理科系科目がなく、ヤンゴン大学の入学試験には選択教科として数学と理系教科目があったので、民族学校出身者は受験において不利だった[5]。また、民族学校では「国王陛下万歳」の代わりに仏教の五戒が唱えられ、英植民地政府系学校では禁じられていた新聞を読むこともできた。英植民地政府系学校では欧米式の靴が義務付けられていたが、民族学校ではどのような履物でも認められた。英植民地政府系学校では除外されていたミャンマー語のアルファベットの6字が、民族学校では復活した。英植民地政府系学校では大英帝国記念日、国王誕生日、土曜日、日曜日が休日だったが、民族学校では仏教の安息日前日と安息日、そして1920年のヤンゴン大学のストライキで、学生が大学をストライキを始めた日が休日(後述)だった[6]

また、民族学校と並行して、1921年にミャンマー語やミャンマーの歴史に重点を置いた民族大学も設立された。開校当初、教授は10人、学生は23人で、ミャンマー語で授業が行われ、歴史教育や、会計学、商業、鉱業などに力を入れた。しかし、資金難のために民族大学の教職員の給与は低く抑えられ、結局、1924年に閉鎖された[7]

ラングーン大学学生組合(RUSU)の設立

ラングーン大学学生組合会館

1920年ストライキを機に、1923年、大学当局によりラングーン大学学生組合(Rangoon University Student Union:RUSU)が設立された。設立に尽力したのは、当時大学の法律講師で、のちに高等裁判所裁判官、立法参事会議員となったウー・メイオウン英語版だった。彼は「オックスフォード大学が今日考えていることは、イギリスが明日考えていること。オックスフォード大学が今日発言することは、イギリスが明日発言することだ」という有名な言葉を引いて、「ラングーン大学が今日考えていることは、ビルマが明日考えるていること。ラングーン大学が今日発言することは、ビルマが明日発言することだ」と述べ、学生のエリート意識を刺激した。RUSUは、ダンス、スポーツ、軍事訓練、討論会、文学研究会などの活動を行ったが[8]。RUSUの幹部は、インド高等文官バーマ・オイルへの就職を目指していたので、反政府運動は一切行わなず、1920年代半ばにRUSUは消滅した。その後、1930年、ウー・ニョという富豪が寄付した1万7,000ルピーを元に、組合会館[注釈 3][9]を建設。1階には食堂、書店、理髪店があり、学生がビリヤード、卓球、ウェイトリフティングを楽しめる広い部屋もあった。上階の集会所では、討論会、会議、祭り、集会が頻繁に開催された[10]。そして1931年、ウー・ニュン、チョオテイン、オウン、バセイン[注釈 4]の4人が、ケンブリッジ大学学生組合の憲章を参考にして、新しい憲章を作成し、RUSUを復活させた[11]

「国民の日」の制定

ストライキを開始した12月5日は「国民の日英語版」となった。ただし、ビルマ暦で祝われているので、西暦による日付は毎年変わる。1970年のストライキ50周年には、シュエダゴン・パゴダの境内南西隅に記念の石碑が設けられた。石碑に刻まれている名前は、バキン(Ba Khin)、ポークン(Po Kun)、バーウー(Ba U)、アウンディン(Aung Din)、トゥンウィン(Tun Win)、ペテイン(Pe Thein)、バシン・サンドウェー(Ba Shin《Sandoway》)、バシン・タヴォイ(Ba Shin 《Tavoy》)、 K.ンジーペイク (K. Ngyi Peik)、フラティン(Hla Tin)、マグF(Mg E)の11人である[12]

脚注

注釈

  1. ^ 当時の若者たちは、ビルマ仏教徒青年会英語版(YMBA)の活動を通じて、政治に関心を強めていた。
  2. ^ この際、インド系の学生が「料理人がカレーに十分な塩を入れなかったからといって、食事を拒否するのか?」と尋ねると、ボイコットに参加していた学生たちは、「料理人がカレーに十分な塩を入れなかったという問題ではない。我々の訴えは、彼が赤唐辛子を挽き、マスタードを混ぜた、とんでもないカレーを作ったことだ。こんな名物料理を口にできないのは、当然だ」と答えた。
  3. ^ この会館は1962年ラングーン大学抗議英語版の際に、ミャンマー軍によって爆破された。
  4. ^ その後、バセインはタキン党に入り、タキン・バセインとなり、他の3人はインド高等文官となった。

出典

  1. ^ アジア・太平洋総合研究センター. “ヤンゴン大学 基礎資料集 - 東南アジア”. Science Portal Asia Pacific. 2025年11月7日閲覧。
  2. ^ a b Aye Kyaw 1993, pp. 7–19.
  3. ^ 根本 2010, p. 93.
  4. ^ a b c d e Aye Kyaw 1993, pp. 20–34.
  5. ^ 田中 2017, pp. 187–212.
  6. ^ Aye Kyaw 1993, p. 37.
  7. ^ Aye Kyaw 1993, pp. 45–48.
  8. ^ Aye Kyaw 1993, pp. 51–63.
  9. ^ Myanmar’s Destroyed Heritage: Rangoon University Student Union” (英語). The Irrawaddy. 2025年11月8日閲覧。
  10. ^ The Yangon University Students’ Union (1931-1962) | Ministry Of Information”. www.moi.gov.mm. 2025年11月8日閲覧。
  11. ^ 根本 1996, p. 64.
  12. ^ Security Block Students’ Stone in Shwedagon” (英語). The Irrawaddy. 2025年11月8日閲覧。

参考文献




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